「私」という錯覚は māna 慢に変身します。世間は「私」という自覚に反対しません。自分を大切にしなさい、命には計り知れない価値があるのだ、と言うのです。命を粗末に扱うこと、自害することを批判します。「自殺は重罪で、必ず地獄に堕ちるのだ」と宗教がうわごとを言うのです。
私がいるならば、相手もいる。その他の生命もいる。それで、私を中心に他の生命を比較することが可能になります。それが慢という感情です。前提として、誰でも「自分が一番偉い、自分が正しい」という価値観を持っています。この尺度を持って生きてみると、自分より卑しい生命も、自分と等しい生命も発見するのです。「あの人が私を侮辱しました」という感情は、慢が割り込んだ結果です。私は偉いのに、あの人がそれを否定したといって、怒らなくてはいけないのです。怒れる相手ではないならば、落ち込まなくてはいけないのです。
自我を認める俗世間ですが、慢に対しては否定的です。誰かが自慢すると嫌な気持ちになります。「そんなに我を張るなよ」と叱ったりもします。そうやって他人の慢は叱りますが、他人を叱る気持ちになったのは自分に慢があるからだとは理解しないのです。誰かが自慢すると聞いていられないのは、自分の自我意識と慢がそれを受け入れたくないからです。
自我の錯覚から慢が現れます。しかし、慢と自我は同一ではありません。働きが違います。自我があるだけでは他人と喧嘩しませんが、自我から慢が生じたら他人と喧嘩したり、他人を批判したりし始めるのです。
これは海と波のような関係だと理解してください。海岸を浸食するのは海ではなく、波です。しかし、海がなければ波もないのです。
世間は自我には肯定的ですが、慢には否定的です。しかし、慢をなくすことはできないのです。このテーマについて、女神が二番目の偈で質問しました。
アルボムッレ・スマナサーラ
『サンユッタニカーヤ 女神との対話 第一巻』
サンガ新社 より

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Madoka様へ
7月4日(土)、北トピア瞑想での個人的日誌を添付します。10時からは長老の説法に参加せず、別フロアで瞑想しました。
【長老の説法について】
過去数十回、聞きました。その場ではなるほどと思いますが、日常生活では元の木阿弥に戻ってしまいます。何度聞いても自分の
切実な課題であると真剣に悩まないと無意味。結局のところ高みの見物、他人事。いくら瞑想を繰り返し、説法を聞いても時間の
ムダ。「欲」を無くすために「欲」を使うという自己矛盾、堂々巡り。
【10時~12時の心の状態】
説法時間中に瞑想実践したのは自分唯1人。 心を観察すると説法に出なかった言い訳、自己正当化が延々1時間続きました。
たった1人で広いフロアで瞑想すると恐怖感、孤独感を感じ、上記の心となるようです。さらに瞑想すると幼少の時から学業、
会社、社会を通じてずっと「周囲と同調し、安心する」ことに飼い慣らされてきた自分がいると実感しました。
心に「安心を求めて安全柵のようなイメージを作り上げ、執着している」と感じました。それが幼少のころから延々と継続し、日常
生活を支配している。この安全柵が海、すなわち自我ならば日常生活で自我の気づきを得るのは相当難しく、瞑想会に参加して自我
の存在にやっと触れる程度かも知れません。わかりやすい感覚と心(慢、怒り、欲)の状態である波を観察するしかないようです。