生きとし生けるものが幸せでありますように

「罪を隠せない」人間がいることは、すべての人間にとって幸福です

預流果は言い訳をしない

体・言葉・こころで罪を犯しても彼はそれを隠すということはしません。預流果に達した者は隠すことをしません。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。

 預流果に達した人が、何か悪いことをしたとしましょう。それはあり得ることです。完全な解脱に達するためには、十結という十種類の煩悩を無くさなくてはいけない。預流果に達したら、有身見・疑・戒禁取という三つの結(煩悩)は無くなりますが、欲貪(欲)・瞋恚(怒り)・色貪・無色貪(色界・無色界の梵天に生まれても悪くないという執着)・慢・掉挙・無明という七つはまだ残っている。たとえば慢に誘惑されて人を軽視したり、見下したりする可能性もあります。怒りが出て人を怒鳴ったりすることもあり得る。俗にいう「罪を犯す」ことには決してなりませんが、仏教的に言えば、悪行為にかわりはない。悪行為には、身体・言葉・思考の三種類があります。
 預流果の人は、この三つの行為の間違いを犯しても、それが間違いだと知っているのです。悪行為を正しいことだと勘違いしないのです。一般の人々は違います。一般の人々が罪を犯す時、それが正しいと思って犯しています。自分の間違いを正当化するために、「家族を守るためにそうするしかなかった」などと言い訳をします。預流果に達した人は、自分の誤った行為を決して隠しません。罪を認めて懺悔し、自分を戒めようと努力する。自分の生き方で、仏法僧が批判を受けないように気をつける。ふつうの人々は自分の悪行為の責任を何としてでも他人のせいにしたがります。「法律で禁止してない」「いま不景気なのでこうするしかない」「自分は漁師の家に生まれたので漁業をしなくてはいけない」「人がやることは神様が決めるので自分にはどうしようもない」等々を理由にする場合、それは自己責任を免れようとしていることです。しかし誰かから「あいつを殺せ。さもないとお前の子供を殺すぞ」と脅されても、自分が殺意を抱かない限り、殺すという行為はできない。行為は全て最終的に自己責任です。預流果に達した人は、この法則を知っている。だから、自分が誤った行動を取ったならば、それを決して隠そうとはしない。言い訳をして責任を免れようとはしない。預流果に達するとは、大胆な人格改良です。「罪を隠せない」人間がいることは、すべての人間にとって幸福です。

スマナサーラ長老
施本 「宝経」法話 第二版 
p.64〜65

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