Appiyehi sampayogo 好きになれない・嫌な気持ちになるものごとと付き合うことになるのも、dukkho 苦です。嫌な人と付き合うことであると、簡単に理解してしまうフレーズです。しかし、お釈迦様は一般の人間の理解レベルを超えて明確に真理として説明なさいます。私たちにとっては「あの人は肌に合わない。あの人のことが嫌」という気持ちがあるかもしれません。しかし、嫌な人は何もしないのです。それなのに、嫌な気持ちが生まれるのです。
それはどういうことでしょうか?私たちの身体に、色声香味触法というデータが眼耳鼻舌身意という認識機関を通して触れるのです。そのとき、心に起こる好ましくない気持ちに、dukkha と言うのです。見たくないものを見なくてはいけないとき、聴きたくないことを聴かなくてはいけないとき、嗅ぎたくはない匂いを嗅がなくてはいけないとき、味わいたくないものを味わわなくてはいけないとき、触れたくはないものに触れなくてはいけないとき、苦しみが生まれるのです。それから、考えたくないのに、色んな嫌な出来事が頭のなかで回転するときも、苦しみが生じるのです。生きる上で、これらのことは避けられないのです。
幸福を感じる・楽しみを感じるものごとばかりに囲まれて生活できるわけがありません。悩み苦しみ悲しみ落ち込みなどを感じるものごとにも、遭わなくてはいけないのです。この状況も苦・dukkha と言うのです。
アルボムッレ・スマナサーラ著『大念処経 ヴィパッサナー瞑想の全貌を解き明かす最重要経典を読む』 (サンガ)
法の随観/苦諦の解説より

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コメント一覧 (3件)
madoka様へ
歩く瞑想で認識器官から起きる感覚、思考や見解の流れに執着せず、無視することに加えて、瞬間的かつ微細な認識自体の変化を
知ると、苦が減ったかどうかわかりませんが、心が落ち着くようです。ひょっとして自己欺瞞ではないかという不安が残りますけど。
田中さま
こんにちは。
歩く瞑想実践で心の落ち着きを実感されているというコメント、ありがとうございます。
動きのある観察?のなかでも、手の上げ下げの瞑想、食事の観察の時に箸を置き手を膝へ戻し置く動作の実況中継では
ものすごく心が落ち着くなぁ、とわたしも感じます。
歩く、手の上げ下げ、食事の動作など動きのある日常生活は瞑想と繋がっているので心の落ち着いた状態を維持できます。
でもペースが速く、騒々しい人との会話や接触では自分の心の落ち着きは簡単に壊れます。(自分だけかも知れませんが)
怨憎会苦の真理の一端、自己欺瞞の不安感の原因はこの辺にあるのではないかと感じます。しかしこれも自己正当化かも?