生きとし生けるものが幸せでありますように

善行為は、ほどほどで大丈夫?

Q 先日ある意見を聞きました。それは「輪廻して次の生命に生まれ変わるとき、その生命は過去の生命が何をしてきたか分からない別の人格なので、業を相続していても実感がないはず。だから、今生で修行とかあまり熱心にする必要は無いのでは? せいぜい今が困らない程度に道徳を守ればよい」というものでした。
……この見方は間違っていると感じるのですが、何処がどんなふうに間違っているかよくわかりません。

A ”過去の業はわからない”というのは当たり前です。わからないのだけれど、業の結果は酷いものなのですね。我々はせっかく人間に生まれたのだから、「善行為のみをする」ということは、具体的な対策方法なのですよ。これは道徳的な、「どう生きればいいか」ということの答えであって、哲学的に問題を解決するわけではないのです。

お釈迦様が仰るのは、過去があったかどうかを知らなくても、善行為しなさい。死後があってもなくても、どうでもいいです。今、善行為しなさいよと。そうすると、自分には具体的に幸せになるということはわかるでしょう。

だったら、論理的にそこを拡大してみるだけ。そういう風にしなくちゃいけないと思いますね。

この質問の相手は、そこそこ道徳を守れば良いのではないかという異論…異論というか、 この thesis を出したいでしょうが、成り立たない。なぜならば…それって怠けだからね。

世の中で、そこそこやっても何も得られません。道徳というのはそう簡単ではないのです。かなり頑張ってやらないと善行為はできないのです。生命は、悪行為するようにできているプログラムなのです。

だって生きることは、存在欲で生きているでしょう。微生物から巨大な神々まで、存在欲とは欲でしょう。欲には怒りやら、嫉妬、憎しみやら、もう…繋がってくるのです。だから貪瞋痴は必ずあるのです。貪瞋痴が作ったアルゴリズムで生きているのだから、生命の自然な流れが悪行為になるのです。

ですから、善行為をするということは、我々にとっては遺伝子のプログラムに逆らっているような大変なことなのです。「そこそこ善行為する」というのは、あまりにも物事を知らなさ過ぎですね。この質問の相手は、生命の仕組みをそれほど知らないのです。

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