生きとし生けるものが幸せでありますように

「熱海と私」読経について

熱海仏法学舎合宿で体験した初めてのスマナサーラ長老によるパーリ語での読経は、私にとって衝撃的でした。経典本の字を追うのがやっとで意味を理解するのも難しかったのですが、なぜか、読経のフレーズが頭の中でリフレインする現象が起きてしまいました。

聞きなれないパーリ語の読経に宗教儀式的な違和感を感じる方も多いと聞きますが、私にとっては、リフレインする読経のフレーズは、とても気持ち良いもので、まるで「お釈迦様の教え」に出会えたことを祝福してくれている天女の歌声のようでした。

当時、妙光さんが、夜の読経に一緒に参加されていらっしゃいました。天台宗で研鑽された歴史を持たれる妙光さんの読経は迫力があり、日本人にはなじみがある大乗仏教的な読経唱和のスタイルでもありました。

初心者にとっては、単調な節の方が発音しやすくて、スマナサーラ長老による異世界的な節(笑)よりも助かっていた部分もありました。何より長老からは読経スタイルに対して一切コメントがなされず、質問する人もいませんでした。

毎月行われていた熱海合宿への参加回数を重ねて暫くした頃、ふとスマナサーラ長老の抑揚のある節回しに合わせたくなりました。スマナサーラ長老の自由を重んじる指導方法に安心して心を任せていた私は、異端児的ではありましたが一人で長老の節回しに合わせて唱え始めた経験があります。 人に合わせること、勝手なことをしないことという概念の中で生きてきた私が何の躊躇もなく、このような行動をとれたのは、少しづつ、固定概念の束縛の箍が外れ始めた現れでもありました。

長老の節に合わせてからは、波長の差を強く感じられるようになりました。長老が発せられる音の清らかさに気付くようにもなりました。それからは、私にとっての読経は心を清める準備体操みたいなものでもあり、集中力を養うための手段ともなりました。

当初は日本語訳の文字は、流し見していたため、意味について読経中に考える余裕はなかったのですが、その後ヴィパッサナー瞑想の実践を続けるうちに突然、日本語訳の文章の意味が心に飛び込んできて、心が強く突き動かされた経験があります。俗世で溜めこんだ心の汚れがある程度払い落とされてきた頃にそれは起きました。

それは、無智である自身への戒めとして、修行への精進を助ける叱咤激励として、獅子吼のような強烈さと即効性で、お釈迦様が直に私に語りかけられているようなお言葉として心に入って来た体験でした。時が経ってやがて、仏法僧への帰依心が整ってくると、仏教徒であることの誇りも感じられるような優しいお釈迦様のお言葉としても聞こえるようにもなりました。

今では、私にとっての読経はお釈迦様の説法として、心に響かせるように内へと唱えるものとなりました。               

合宿などの参加者の中で時々、大きな声でド迫力の読経を唱える方が見受けられます。でも、いつしか、その方たちの声が小さくなっていることを発見します。そんな時、その方達も何か気付きがあったのかなと想像しています。

自分で答えを見つけていく、他人からの押し付けでの教えではない、そんなスマナサーラ長老の自由な指導方法だからこそ、宝物を自分で見つけた時は想像以上の喜びに溢れる体験となっています。     

最後に
ここまで稚拙な体験談にお付き合いいただきありがとうございました。

実は
「読経とは」について、スマナサーラ長老がしっかり解説してくださっている文章があります
(当時、このページは目に留まらなかったわたしです;^_^A)。

最初からこの文章(下記転載)の意味を理解できた人は、私のような回り道をしないで、純粋に読経の功徳に触れることができることでしょう。

みなさまに三宝のご加護がありますように

日常読誦経典 序文

読経とは、お釈迦様の説法された真理のことばに触れることです。
読経をすることによって、私たちはこころの安寧を得ることができます。

それまで抱えていた悩みや心配事はなくなり、こころは統一されていきます。
そうすることで日々、不幸な出来事から身を守ることができるようになるのです。

本書でご紹介するパーリ経典は、大聖者であるブッダの純粋な教えですので、口にするだけでも高徳が得られます。
そのときの気分と時間にあわせて、経典を選んで読んでみるのがよろしいと思います。

テーラワーダ仏教国では伝統的な経典の唱え方がありますが、それぞれ自分のこころが穏やかになる節・調子で(声明でも、謡いでも良いのです)唱えてみてください。

単なる儀式やしきたりとして経典を読むのではなく、そこに説かれた真理を理解することで、みなさまに智慧が現れますようにと祈念いたします。

三宝の御加護がありますように
アルボムッレ・スマナサーラ

【こぼれ話】

以前、一時出家修道会をマーヤデーヴィ精舎で執り行った際に、一時出家修行者が指導者である長老に対して誓願の経文を唱えたことがあります。

その際、長老がDhammaṃなどのṃの発音を丁寧に注意されたことがありました。発音の仕方で意味が変わってしまうとのこと。RとLの発音の区別が難しいのと同様に日本人にとっての「ん」「む」の区別もかなり難易度が高いと思います。

言語コンプレックスを持つ年老いた脳の持ち主である自分は、子供の頃から慣れ親しむ仏教教育があったら、大事なお釈迦様の経典を日本人の手でも引き継いでいくことが出来るのになあと考えていました。

そんな中、最近、興味深い講義がありましたので、紹介します。

2022年11月23日にゴータミー精舎で開かれたヘーマラタナ長老勉強会の記録(ZOOM録画)です。パーリ語の成り立ちとその発音についての勉強会です。

日本テーラワーダ仏教協会ホームページ・日常読誦経典サイトはこちら
https://j-theravada.net/world/sutta/

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コメント一覧 (1件)

  • とても素敵な経験を共有して頂き、感謝で一杯です。

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