熱海仏法学舎は、日本テーラワーダ仏教協会のお寺です。
次のような生き方を目指して、日々仏道に精進している集いです。
9 RULES
- 私たちは、すべての悪行為をやめるように努力します。
We will endeavor to end all evils. - 自ら善行為をするように励みます。善行為に励む他の人々を応援して、協力します。
We encourage ourselves to do good. We support and cooperate with others who are striving to do good. - 心が怒り・嫉妬・憎しみで汚れているから、生きることは苦になると理解します。
We understand that living is painful because our hearts are stained with anger, jealousy, and hatred. - 汚れのない、清らかな心を育てることに励みます。他人にもそれを勧めます。
We strive to cultivate a clean and pure mind. We encourage others to do the same. - 他人の過ちを批判する排他的な生き方をやめて、人が幸福になる道を教えます。
We stop the exclusive way of life that criticizes the mistakes of others and teach people the way to happiness. - 常識的で道徳的な人間として生きることに励みます。
We strive to live as a commonsense and moral human being. - 食べるもの、着るもの、あらゆるものに節度を持ち、必要以上に使って他の生命の生きる権利を奪うことがないようにします。
We strive for moderation in food, clothing and all things, so that we do not use more than necessary and deprive other rights to life. - 日々怠ることなく、より善い心を育てることに励みます。
Without being heedless, we strive to nurture a better mind each day. - 釈迦牟尼仏陀によって説かれたこの生き方は、人類が苦しみを乗り越えるための教えであると理解して、仏道を歩みます。
We walk the Buddha’s path with the understanding that this way of life preached by Sakyamuni Buddha is a teaching for humanity to overcome suffering.
仏道って、どんな道?
仏道とは、普通の生き方と異なる特別な行ではありません。日常の生き方そのものに智慧の光を照らしてみることです。何をしていても、自分を客観的に観て、一つ一つの瞬間に意識を向ける。葛藤をシャットアウトしたり、コントロールしようとして新たな問題を作るのではなく、ただ気づくだけ。
それが苦悩を超える道です。
波立っている水面が穏やかになってすべてを映し出すように、深い智慧と洞察力が生まれてきます。
精神的な独立への道、依存を破る道、無知を完全に砕く道、真理を発見する道、すべてのものを知り尽くす智慧の道、俗世間の次元を超える道でもあります。
未来に理想を描いて、そこに到達するために努力するのではありません。実在しない未来に対して、できることはありません。私たちにできるのは「今、何をするか?」だけ。今すべきことを適切に実行することで、幸福な未来が形成されます。正しく生きるとは、今を生きること。仏道とは、今を生きることです。今を生きる人は、すべてを制覇します。
Atîtam nânvâgameyya,
nappatikankhe anâgatam;
yadatîtam pahînam tam,
appattanca anâgatam.
Paccuppannamca yo dhammam,
tattha tattha vipassati;
asamhîram asankuppam,
tam vidvâ manubrûhaye.
過去に引きずられず
未来を期待しない
過去はすでに終わり
未来はいまだ現れてない
現在の法(現象)を
その場その場で観察する
しかし現在にも実体がないことを知る
そのように知る人に、成長がある
「日々是好日」偈 Bhaddekaratta gāthā
こころの汚れを断つ
苦しみは、欲望・怒り・嫉妬・憎しみなどのこころの汚れ(煩悩)から生まれます。仏道は、苦しみをなくす方法です。ですから、こころの汚れを断つための手段は、まとめて仏道になります。
他者に親切にしたり、優しい言葉をかけたりする当たり前の行為も、お布施したり、戒律を守ったり、道徳を重んじて冥想することも仏道です。
人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知りません。「善いことをしているんだ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりすると上手くいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。「悪」という材料で善を作っている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかり。よく見ると生命の役に立っていません。
皆、本当は「自分さえ良ければ、それで十分だ」と思っています。自分の役に立つなら親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいい。その本音を出すと上手くいかないから言わないだけです。そういう心で「善」を考えて何かしても、汚れた思考や概念で考えた行為なので、臭いゴミで芸術作品を作るようなもの。芸術作品だから、それなりの形はあるかもしれませんが、ゴミだから汚くて臭い。家には飾れません。
そこでお釈迦様は、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴です。善は不貪・不瞋・不痴です」と。見ると「不」という否定形を入れただけです。それがすごい智慧なのです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が一番具体的なのです。
自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさいということです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんばる。欲を抑えようとがんばる。だから、本物の善行為は派手ではありません。ずいぶん質素です。己の不善との戦いです。他に何もする必要はありません。それだけで大変です。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると本物の善が経験できるのです。
人に嫌なことを言われたら、自然に嫌な気持ち・感情がこみ上げてくるでしょう? その気持ちと戦うのです。その感情を抑えるのです。嫌な出来事があった時、私たちに自然に出てくる感情(一次的な感情)は、すべて悪い感情だと思って間違いありません。その一次的な最初の感情を出さないようにする。顔つきや言葉など表面的なことではなく、内心の、心の深いところで怒りの感情が出ないようにがんばる。もちろん簡単ではありません。苦しいけれども、自分の悪と戦ったことになるのです。その行為は汚れていません。
「私が善いことをするぞ」と思ってする行為は、大抵汚れています。名誉欲や慢心や競争心などが隠れている。だから自己観察をしないと、人には善いことはできません。
感情は生きるエネルギーです。怒ると、「怒り」が生きるエネルギーになります。怒りが出ないようにしたら、「怒らないこと」が生きるエネルギーになるのです。それがどういうものか、自分でやってみないとわかりません。「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すごく元気で明るくなります。大人になれるのです。その精神的な強さが善です。心の修行をする人しか、善は知らないのです。
自分の悪を落とす道。仏教で目指すのは、その道です。自分で経験して理解するのです。善は、自分で経験する。派手に、人にわかるようにすることではありません。
善と悪は、己の心を中心にして理解します。汚れた心は悪で、清らかな心は善。
しかし、智慧が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。そこで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが善というものです。
引用元:https://j-theravada.net/dhamma/q&a/gimon88/
お釈迦様が分ける4種類の人間
仏道に「自分さえ良ければいい」という教えはありません。誰であれ、自ら心を清らかにするべきです。そして他人にも真理を教えて、心を清らかにする道を歩んでもらうことが最高です。
お釈迦様は、人間を4種類に分けます。
このうち、④が最も優れています。その次は、③です。
②は、カッコ悪い生き方。でも、何もしない①よりはマシですね。
誰だって自他ともに心清らかにする④の生き方をしたいでしょう。しかし、自分にその能力があるか否か、現実的に考えたほうが無難です。自分の能力レベルに合わせて、③を選んだ方がいい場合もあります。
他の生命を観察しよう
自分の修行のためにも、他の生命をよく観察することが大切です。エゴがいかに危険か、慈しみがいかに大切かと理解するために、周りの生命をよく観察してください。
たとえば犬を見たって、性格によって印象が違います。「こっちの犬は、自我を張りすぎで狂暴。だから気持ち悪く感じる」「このワンちゃんは、自我を張らないで周りにも優しい。だから可愛く感じる」
そうやって、データを集めましょう。
人間関係でも他の生命との関係でも、優しさには、優しさを返したくなります。自我を張られると、攻撃したくなるものなのです。それが分かると、「私は幸福に生きたいから、決して自我を張りません。慈悲を育てます」と、自分を戒めることができます。まず自分を戒めてから、他の人々に教えることにも挑戦しましょう。
苦しむ世界で苦しみなく
世界は欲によって苦しんでいることを観察して
私は欲を控えることに精進します。
世界は怒りによって苦しんでいることを観察して
怒りのない心で生きるように精進します。
世界は嫉妬によって苦しんでいることを観察して
嫉妬のない心で生きるように精進します。
世界は恨みによって苦しんでいることを観察して
恨みのない心で生きるように精進します。
世界は物惜しみによって苦しんでいることを観察して
物惜しみのない心で生きるように精進します。
世界は自我を張るから苦しんでいることを観察して
自我を張らない心で生きるように精進します。
世界は見栄を張るから苦しんでいることを観察して
見栄を張らない心で生きるように精進します。
世界は一切の現象は無常であると気づかないので苦しんでいることを観察して
一切の現象は無常であると認めて生きるように精進します。
世界は一切の現象は苦であると気づかないので苦しんでいることを観察して
一切の現象は苦であると認めて生きるように精進します。
世界は一切の現象は無我であると気づかないので苦しんでいることを観察して
一切の現象は無我であると認めて生きるように精進します。
引用元:慈悲の瞑想 フルバージョン
良いことは人から学ぶ
仏道の目的は完全なる自由(解脱)です。ところが、実践しようとすると、少々問題が起きます。人間は本来、執着のどん底にいます。無明という暗闇のなかで彷徨っているのです。独力で抜け出せるなら、誰でも解脱に達しているはず。しかし、自力で執着を断つことに成功したのはお釈迦様だけです。
人間なら皆、良いことは他人から学ばなくてはいけません。執着を断つことに決めた人は、誰かの指導のもとでその目的に達しなくてはいけません。指導者は、普通に欲に溺れて生活する人々に「生きることは苦に満ちている」と教えてあげなくてはいけない。ということは、解脱に達するまで、人間関係を完全に断つことは不可能だということです。
善友って、どんな友?
欲の仲間は誰にでもいます。しかし、欲と執着から脱する方法を教えてくれる仲間は稀有です。仏教は、家族・親友などのつきあいは高く評価しない。それらは執着の仲間だからです。もし誰かが、生きることの本来の姿(苦であること)と執着から脱する方法を教えてくれるなら、その人こそ真の友人だと説くのです。「善友」とも言います。
お釈迦様は、「善友に出会えたなら、仏道を完成して解脱に達します」と説かれました。「如来こそが人類の真の善友である」と説かれました。
「もし善友に巡りあうチャンスがあったら、その人は、すべてを捨てて、直ちにその善友について行くべきだ」と釈尊は力説します。たとえ一国の王・大統領であっても、お釈迦様の立場から見れば何の価値もありません。一般人は、家族に執着して束縛されている。国王・大統領・社長は、国一つに、会社一つに執着して束縛されている。王はむしろ、一般人より惨めです。表面的には大胆で偉く見えるものの、精神的に耐えられないほどの悩み苦しみや恐怖感を抱えています。
仏典には「全財産を捨てて家を出る」エピソードが数多くあります。国・会社や家族を捨てることは無責任で良くないと、一般人は思うものです。しかし仏教では、それこそ自由を目指す人が取るべき態度です。
仏道の人は、国や家族や財産を捨てるのではなく、執着を断つことに挑戦する。決して人間嫌いなのではありません。すべての生命に対して憐れみを抱き、慈しみを抱いています。他の生命に執着すること自体が、その生命に対して慈しみがないことなのです。
「生命との関係」を大切に
「人づきあい」と「人間関係」は、同じものではありません。我々の命は、人間に限らず、無数の生命との関係の上に成り立っています。
ですから大事にすべきは人間関係ではなく、「生命との関係」です。それが、お釈迦様が語る慈しみの生き方です。私たちは慈しみとは何かと知らずに、人間関係を築こうとしています。自分の利益を目指す自我中心的な行為だと気づいていません。だから、誰でも人間関係に相当悩むのです。
慈しみを実践することによって、すべての生命との関係を築きましょう。人間として自分の生き方を向上する目的で、人づきあいも実行しましょう。無批判的に誰とでもつきあうと大変なことになります。つきあう場合は、人を選ばなければいけません。善人を選ぶのです。善人が見つからない場合は、堂々と独りで生活することです。
おおもとの善友は、お釈迦様
Dhammapada
Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
376.Mitte bhajassu kalyāne
Suddhājīve atandite
Patisanthāravutyassa
Ācārakusalo siyā
Tato pāmojjabahulo
Dukkhassantaṃ karissati.
生活清く 倦むことのない善友らと
そなたは交われ
(善友を)親しく迎える者となり
所行の巧者となるなら
それによって彼は喜びに満ち
苦の終わりを作るだろう
mitte bhajassu kalyāne:「善友」と付き合いなさい、という意味です。善友とは、あちこちにいる仲の良い人々のことではありません。おおもとの善友は、お釈迦様自身です。お釈迦様と付き合ってください。お釈迦様と付き合うとは、お釈迦様が説かれた教えを、直々に自分に語られているような敬意を持って読むこと、理解すること、参考にすることです。不思議なほど、自分自身にテーラーメイドしたアドバイスに出会えます。これこそ仏説の奇跡と言うべきです。同じ言葉を繰り返し読んでも、読んでいる時の心の悩みに応じて、ぴったり合うヒントが見えてきます。
お釈迦様の次の善友は、経験のある指導者です。指導者は、自分の能力の範囲で真剣に指導します。仏教の師弟関係は、ヒンドゥー教やチベット仏教に見られるようなグルと弟子の関係とは違います。その場合、グルに対して絶対的な服従を要求されます。もしグルが愚者だったらどうしましょう? これはよくある話です。
仏教は束縛を要求しません。指導者はいい加減ではないのです。自分の利益を求めていません。指導するのは義務です。お釈迦様に対する敬意でもあります。他を助けることも修行の一つです。だから信頼できます。ある指導者が、自分の力の範囲で、自分の実践した方法を教えてあげる。それがうまく行かなかったら、修行者は、他の先輩を尋ねればよい。仏教は自由な世界で、師匠は何人いても構いません。
善友という言葉の意味も理解しましょう。「友達」とは仲の良い人々です。「善友」とは、自分をより優れた人間として育ててくれる、自分のことを心配してくれる存在なのです。「友達」と一緒にいると、自分の精神状態はそのまま。「善友」と付き合ってみると、自分が日々成長します。たとえば、鬼のような顔をして厳しく教えてくれる、理解するまでめげずに教えてくれる先生たちも、一種の善友です。ただ友達でいればいい、という話ではありません。
善友を選ぶ方法
suddhājīve:善友を選ぶ時に必要な条件です。見る限り生き方は清らかです。疑わしいことは何もありません。謙虚で、質素に、自我を張らず、明るく生きている。指導者にそのような性格を見つけたら、善友ということになります。
atandite:揺らがない、という意味です。興奮しない、感情的にならない、いつでも落ち着いている、何が起きても大げさにしない、微笑みが絶えない性格。善友を選ぶ時は、それもチェックするべきです。それぐらいのチェックは一般人にもできます。
柔軟でオープンな心を
patisanthāravutyassa:簡単な訳は、フレンドリーであれ、です。意味は簡単すぎですね。実はそうではありません。これから善友と付き合わなくてはいけません。善友に捨てられたら、すべて終わってしまいます。目上の人々と親しく付き合う時の心構えを教えているのです。
フレンドリーとは、「柔軟性」を持つことです。自分の間違いなどを教えられたら、素直に受け入れる。自分を変えようとする。頑固にならない。自我を張らない。善友に自分の疑問を聴いてもらうのは構わないが、善友に対して反抗的な態度を取って疑問を投げかけたり、異論を立てたり、反論したり、善友の言葉を否定したりしてはいけません。疑問が起きたら、何回でもうかがって勉強するのは構いません。
柔軟性には二種類あります。ひとつは教えに対する態度です。これからブッダの教えを学ばなくてはいけない。心を先入観や固定概念から解放して、新たな真理を理解できるようにと柔軟性を保つのです。
もうひとつは、生活のことです。質素を好まなくてはいけません。ご馳走を欲しがったり、高価な衣を欲しがったり、贅沢な住居を欲しがったりしてはいけません。備え付けられているもので満足して、柔軟に対応する。
喜び多き人間になれ
ācārakusalo siyā:行儀作法を守りなさい、という意味です。
pāmojjabahulo:pāmojjaとは、喜びという意味です。「大いに喜びを感じなさい」と戒めているのです。これは脳の開発にも欠かせない条件です。覚りに達するまで待つ必要はありません。「苦労しなければ楽に達しません」という俗世間の考えは、脳には通じません。
仏教に出会ったことを喜ぶ。仏教を勉強できたことを喜ぶ。修行する意欲が起きたことを喜ぶ。修行できる時間を作れたことを喜ぶ。指導者を見つけられたことを喜ぶ。道場に入れてもらったことを喜ぶ。質素な部屋をもらったことを喜ぶ。世間の騒ぎが無い場所に居ることを喜ぶ。冥想できたことも喜ぶ。冥想がうまく行かない時は、作務を行う。それも喜ぶ。心が少々でも落ち着いたら、それを喜ぶ。
つまりは「何があっても、それを喜びとして認識しなさい」ということです。「修行を成功させたければ、喜び多き人間になれ」という戒めは絶対的です。文句を言ってはならない。欠点ばかり探してはダメです。弱音を吐いたり、言い訳したりするとダメです。失敗します。俗っぽい言葉に入れ替えれば、「楽観主義者になれ」です。
引用元:簡単に見える超越した世界 – 日本テーラワーダ仏教協会
善悪って、なに?
存在欲を守るという善悪
すべての生命に存在欲があります。だから、生きていきたい。死にたくはない。生命の生き方とは、①命を支えてくれる行為を進んで行うことと、②命を脅かす行為を極力避けることです。
木の枝に完熟した果物がぶら下がっているとしましょう。お腹が空いているから、手を伸ばしてそれを取って食べたい。命を支える行為です。ところが手を伸ばそうとして枝を見ると、毒蛇が枝に巻きついているのを発見します。その人はどうすればよいでしょうか? 当然、命を脅かす原因を避けて、命を支える行為をしなくてはいけません。蛇に怯えて逃げたとしても、棒を持って蛇を脅して追い払ってから果物を取って食べたとしても、どちらでも構いません。どんな態度を取ろうが、正解・不正解はありません。存在欲が強ければ、蛇を追い払うでしょう。恐怖感が強ければ、逃げるでしょう。どちらの行為も、おおもとは存在欲から発生します。
生命は、命を支える行為を進んで行う。命を脅かす行為を極力避ける。これが世間で一般的に語られる善行為になります。命を脅かす行為は悪行為になるのです。
矛盾で終わる曖昧な理解
命を脅かす行為が悪行為なら、誰も悪行為をしないはずです。誰も進んで自分の命を危機にさらそうとはしません。ところが、俗世間は悪行為で一杯です。人間の善悪観は、真理ではなく、存在欲を表す感情に過ぎないからです。理性的ではないのです。存在欲を持つ人間が悪行為をするのは、本来は矛盾極まりないことです。善悪の区別は、善悪観ではなく「善悪感情」になっているのです。感情とは、主観的で勝手な気持ちであって、客観性のある具体的な話ではありません。
だから、「人を殺してはいけない」と言いながら、「敵を倒すために戦わなくてはいけない」とも言う。「盗んではいけない」と言いながら、さまざまな工夫を凝らして宣伝して、人々の欲望を喚起して、それほど価値のない品物を高値で売ってボロ儲けしている。平和を守るために、武器を開発する。「平和を好むなら、弾を込めたピストルを携帯しなさい」という世界になっています。
仏教的な善悪の定義
矛盾極まりない生き方をもって道徳的生き方と言うなら、笑い話になります。仏教的には、幸福な結果をもたらす行為は善行為で、不幸に陥る行為は悪行為になります。そこに矛盾があってはなりません。
幸・不幸を自分勝手に判断すると矛盾に陥ります。自分が金持ちになって幸福になるからという理由で、強盗してはいけません。なぜなら、被害者は直ちに不幸になる。加害者も罪がバレたところで不幸になる。善行為の場合は、自分も他人も両方とも幸福にならなければいけないのです。
人が畑で野菜を作る。誰かに売ってお金をいただく。売った人も買った人も得しています。善い行為です。決して悪行為になりません。ただ、定義をそれだけにするとブレが生じます。
一切の行為は、こころが惹き起こしているものです。「貪瞋痴で汚れた行為」は悪です。「不貪不瞋不痴でおこなう行為」は善です。それが最終的な定義です。
2種類の悪:仏教では、悪を「罪pāpa」と「不善akusala」の二つに分けます。「罪」は激しく、「不善」は徐々に命を破壊する悪行為のことです。
たとえば殺人罪を犯してしまったら、それで自分の人生は終わりでしょう。上手く逃げおおせたとしても意味がありません。毎日、犯した「罪pāpa」の重さで、自分が破壊されていくのです。仏教では「①殺生、②盗み、③邪な行為、④偽り、⑤無駄話、⑥悪口、⑦二枚舌、⑧貪欲、⑨嗔恚、⑩邪見」の「十悪」が「罪pāpa」としてよく経典に出ています。そのなかでも最後の3つ、「異常な欲」と「異常な怒り」と「邪見」の3つが最も重い罪pāpaであるとされています。
「不善akusala」とは、「善kusala」の反対で、感情や煩悩によって判断を間違ったり、失敗したりすること。「下手な行為」という意味です。生き方が下手だと不幸になります。「不善」なら何をやっても結果が良くないのです。不善は遅効性の毒です。じわじわと人格が堕落していき、徐々に命が破壊されます。たとえば、失敗すると、どうしても落ち込んでしまうでしょう。失敗したからといって死ぬことはありません。しかし、落ち込みによって能力が低下するのです。
この二種類の悪には、いずれも「完成」が成り立ちません。罪や不善はどこまで行っても未完成に終わります。完成する前に人は死んで不幸に陥るのです。悪行為を続ける限り、輪廻を解脱することはできないのです。
2種類の善:善も、仏教では二つに分けます。「功徳puñña」と「善(善巧【ぜんぎょう】)kusala」です。
人を助けてあげること、ボランティアで社会に貢献すること、お布施すること、仏教を学ぶこと、戒律を守ること、冥想実践することなどは、「功徳puñña」になります。
「善(善巧)kusala」とは、同じ「よいこと」を、行為の意義をよく理解したうえで、理性的な判断能力を使って行うことです。訳語に「巧(たくみ)」という漢字が入っているのは、そのニュアンスを伝えるためです。
この二つとも「よいこと」に変わりありませんが、大きな違いは「完成が成り立つか否か」です。
「功徳puñña」の善は、いくらやっても「完成」しません。たとえば困っている人を助けるとします。自分一人で何人助けることができるでしょうか? もし仮に全生命を瞬間的に助けられたとしても、生命は次から次へと生まれるのですから、仕事を完成させる前に必ず自分が死にます。無限に輪廻を繰り返したとしても、「功徳」は完成できないのです。
「善(善巧)kusala」の場合は、完成が成り立ちます。善の完成とは、智慧が顕れて解脱に達することです。人格の向上、理性の開発、正しい判断能力を身に付ける、正しい観察能力を身に付ける、よく理解したうえで正しい行為をする。そのような「理性的な善行為kusala」によって、智慧が顕れるのです。
ただ「善いと言われているからする」という気持ちで功徳を積んでも、智慧は顕れません。世の中には、誰も敵わないくらい善行為に励むが、「功徳puñña」の善に留まって、智慧が顕れないままの人もいます。
「完成する善kusala」とは、物事を理解して判断能力を正していくこと。何か理解するということは、智慧の兆しです。智慧が顕れることで善が完成したなら、私たちは「善悪そのものを乗り越える解脱の境地」に達するのです。
仏教徒たちは、無我夢中で善行為をしています。「なぜ自分の利益を重視しないの?」と、他人に質問されることもあります。仏教徒は、「善行為をすれば幸福になるから」と簡単に答えます。これは完全な答えではありませんが、一般の仏教徒はややこしい議論を避けるのです。
善行為をする仏教徒たちは、幸福になることだけではなく、貪瞋痴を戒めることも考えています。善行為をしただけでは解脱に達しないと知っていますが、善行為を完成していないと解脱に達するための修行が実らないとも思っているのです。
人は不完全です。貪瞋痴の衝動で生きています。だから、生きていくうえで失敗ばかりするのです。間違いを犯すし、罪も犯します。完全無欠な性格は誰にもありません。解脱を目指そうとする人々は誰だって、もともと罪を犯した人々です。こころが汚れているのです。こころが汚れていないなら、修行する必要すらないでしょう。
人は、罪を犯したとしても、「悪人」になってはなりません。「悪人」とは、自分の罪を認めない、罪を正当化する、言いわけをする、自我を張る人のことです。自分が犯した罪を素直に認める人は、救いがたい「悪人」ではありません。自らの罪を認めて懺悔することが仏教の常識です。仏教徒は、仏像の前に手を合わせるたびに懺悔します。朝昼晩、真夜中でも、時間に関係なく懺悔します。罪を犯したことがあればもちろん、戒律を守って真剣に生活していても懺悔します。自分が気づかなかった罪に対しても懺悔するのです。この習慣を通して、必死に謙虚な人間になろうとするのです。謙虚でなければ、解脱に達することはできません。
懺悔誓願の文
懺悔いたします。
無明の闇におおわれて、身、口、意の三業によっておかしてしまったあやまちがあります。
仏、法、僧に対するあやまち、恩師に対するあやまち、生きとし生けるものに対するあやまち。これら一切のあやまちを懺悔いたします。
また、自分が受けた他の人々のあやまちも許します。
このように雑事を離れ、ひとり静かに自己の心身を念をもって観つめるとき、瞬間、瞬間、変化生滅しつづける現象をヴィパッサナーによって洞察し、真の幸福を得て、解脱の道へ導かれますようにと、ここに誓願をいたします。
相対的な善悪
一般的な善悪論はここまでにして、善悪論の上級編を考えてみましょう。存在欲がなければ、善悪は成り立ちません。命を支える行為は善で、脅かす行為は悪です。ですから「善悪」は、存在欲によって現れる現象です。
それから、善行為は、悪行為と対照することで成り立ちます。与えられたものでなくても取りたい、自分のものにしたいという感情が人間のこころに既にあるから、「与えられていないものを取らないこと」が善行為になります。人は嘘をついてでも自分を守りたいのが自然です。だからこそ、がんばって嘘をつかないことは善行為になります。善が悪を養う、悪が善を養うという変な関係です。
この相対的な関係を支えているのは何でしょうか? 生きていきたいという存在欲です。なぜ生命は生きていきたいと思うのでしょうか? ほんのわずかな過ちでも起きたら、命が終わってしまう危険性があるからです。世にある一番脆いものは命です。脆いからこそ、命は必死で守らなくてはいけない。命に対して愛着がなければ、守る必要もなくなります。
このように、わたしたちの目の前には、相対的でなければ成り立たない現象の世界があらわれているのです。「わたし」という言葉さえも、相対的な現象です。このポイントは複雑でわかりにくいかも知れません。
善悪の超越
ブッダはわたしたちに何を説いているのでしょうか? 「物事をありのままに観察しなさい」と教えるのです。「直ちに存在欲を断ちなさい」とは言いません。一般人にできることではないからです。人に「空を飛んでみなさい」と言うような、無茶な話になります。
ありのままに物事を観察すると、現象の本当の姿を発見できます。現象が相対的であることも、瞬間瞬間に変化していくものであることも発見するのです。その智慧によって、存在欲が無くなります。再び現れることも無くなります。
仏弟子たちは、この解脱の境地を目指しています。善行為をするために、悪行為を戒めるために仏法僧に帰依して実践しているわけではありません。なぜ悪行為があるのでしょうか? 存在欲があるからです。命に執着があるからです。なぜ善行為があるのでしょうか? 存在欲があるから、命に執着があるからです。「すべての現象は無常である」と発見した人のこころから、執着が消えてしまいます。執着が消えたら、善行為も悪行為も成り立ちません。ただ行為だけになります。
解脱者の立場から観れば、善も執着で、悪も執着なのです。
智慧が現れると善悪の対極性が消えて、善行為が当たり前のことになります。だから「悪を行ってはいけない。善行為をしなさい」というのは、因果法則を理解するまで。それまでは善悪が対極的に感じられるのです。
善悪は、対極的ではなく相対的なものではないですか。「これは善、これは悪」と決められるのか疑問に思います。
対極的というのは、白黒がはっきりしていることです。善も悪もきっちりあるという立場です。相対的というのは、ここでは、白黒はっきりしないことです。長いものも、より短いものがあってはじめて長いことになります。
相対的な考え方は何となくカッコよく感じるかもしれません。しかし相対的に道徳を論じると、善悪が論理学になってしまって、実際的でなくなるのです。相対的に捉えると、全部が仲間になってしまう。「すべては空だ」と言うと、結局、善も悪も存在しないことになる。道徳は成り立ちません。輪廻の世界も涅槃も差がないことになって、わけがわからなくなります。
善悪を対極的に語ると「煩悩を減らして、悟りを目指すべきだ」と簡単にわかります。道徳が成り立つし、修行も成り立つのです。
お釈迦様の道徳論は「実践」という立場を取ります。「人は進化しないといけない、向上しないといけない、努力しないといけない」というモラルを徹底的に語られます。ですからお釈迦様は、対極的に道徳を語られました。しかし、悪を絶対化することはしません。実在する「悪魔」としては捉えない。すべては現象であって、一時的なものであって、原因がある限りにおいて物事は存在する。そこを徹底しています。誰かが怒っても、永久に怒りの種をもっているわけではない。ある条件の下では怒りが爆発する。別の条件の下ではニコニコしている。善も悪も、実体としてあるのではなく、その時その時の単なる「反応」です。心の機能を明晰に見ると、ただの「反応」だとわかります。ある条件では落ち込む。しかし「永久的に落ち込む魂」などは存在しないのです。
引用元:https://j-theravada.net/dhamma/q&a/gimon88/
超越した人の心境
存在欲がある人に、憂い悲しみが必ず起きます。命は脆いものです。そのまま守ることは決してできません。こころから存在欲が消えたら、この現象の世界で何が起きても、その人に憂い悲しみがないのです。
無常を発見していない人にとっては、物事が存在しているのです。美しい花も、気持ちの悪い生ゴミも存在している。花を見て喜びを感じ、生ゴミを見て嫌な気持ちを感じます。要するに、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れるたびに、こころが汚れるのです。
無常を発見した人にとっては、眼耳鼻舌身意にどんな対象が触れても、こころが汚れることはありません。無常を発見した人のこころは、絵を描くことが不可能な空(そら)のようです。相対的な世界に住む人々に理解してもらうためには言葉を使わざるを得ないので、「聖者のこころは清らかだ」と表現しています。しかしこれは、不浄に対する浄のことではないのです。
聖者のこころはどのようなものか、まとめましょう。
聖者のこころには、善(puñña)という執着も、悪(pāpa)という執着もありません。この二つの執着(ubho saṅgaṃ)を超えています。憂い悲しみが起こらない(asokaṃ)のです。こころは汚れなく(virajaṃ)、無色透明で綺麗(suddhaṃ)です。
これが真の聖者の精神状態です。