本当のところ、「自由」というものはあります。生命の法則に則った自由です。けれど、それは誰も知りません。
皆が知っているのは、刺激を安定させることだけです。すべての生命は、「刺激が欲しい、欲しい」と必死でがんばっています。ですが、この刺激自体が「痛い」ことに気づきません。
刺激とは、六官(眼耳鼻舌身意)が情報に叩かれることです。叩かれると感覚が現れます。たとえば、眼に「色」がぶつかります。そのとき眼には、かなりの痛みと、痛みだけではなく微妙な感覚が生まれます。脳細胞は、そのことによって、かなり疲れます。その感覚を自分勝手に理解して「楽しい」「苦しい」と言います。
本当は、外にある絵は見えません。絵は、各人の頭の中で作るものです。見る人の都合によって作った絵と、外にある絵は同じか、似ているだけなのか、判断する方法もありません。「この絵は美しい」とか「音が綺麗だ」というのは、その人の主観です。同じ絵を別の人が見ると、「カッコ悪い」「気持ち悪い」と感じるかもしれません。もちろん、その「カッコ悪い」「気持ち悪い」というのも、別の人の主観です。主観ですから、ある人には楽しいものでも、別の人には楽しくなかったりします。
まずやるべきことは、五欲(眼耳鼻舌身に入る色声香味触のこと)から離れることです。五官の情報に依存することを一時的にやめてみると、この上ない楽しみ・安らぎを感じることができます。眼に情報が触れると、眼は痛みます。であれば、眼で情報を取らないようにするのです。
すると、どうなりますか? 過去の痛みはすぐに消えます。新しい痛みも生まれていません。私たちは絵画を見て眼が疲れると別の絵画を見ます。あるいは美術館の庭園を見ます。ある痛みから別の痛みへと、乗り換えているのです。そこで論理的に、何かを見て疲れたなら何も見ない、音を聞いて耳が痛くて精神的にクタクタに疲れたなら聞かない、ということにしては如何でしょうか? 五官の情報に依存しない、あるいは五官の情報から離れることにすると、突然今まで味わったことのない本物の安らぎが生まれます。情報に触れて感じる痛みがなくなるからです。ご飯を食べて感じる幸福とは、ずいぶん違います。
五官の情報から離れると、本物の楽しみが生まれます。今まで絶えず感じていた痛みがなくなっているのです。
「自立への道」ブッダはひとりだちを応援します pp203-207
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