生命は、「苦」を感じたくないのです。だから、どんな生命も「苦(苦しい状態)を変えよう」としています。
なんのことはない、生きるとは、「苦(苦しい状態)を変えようとすること」なのです。
私たちがなにをしても、していることは「苦を変えようとする作業」です。
勉強する、仕事に行く、家の掃除をする、洗濯をする、買い物をする、ゴミを出す、電話する…、いろんなことをするでしょう。よく観察してみてください。
すべて苦(苦しい状態)を変えようとしています。
心が苦しみを感じて、「これはイヤだ」という気持ちが生まれます。「では、変えましょう」と、なにかをする。
しかし、変えてみたところで、そこにあるのも苦しみなのです。「あ、これはイヤだ。また変えよう」と変えたら、そこにあるのも苦しみです。
素直に観てみると、「苦しみはイヤ、苦しみは経験したくない。これをやめたい、ここから逃げたい」という気持ちがある。
「苦しみ」に直面するのを避けて、誤魔化そうとする気持ち。それが「怠け」の正体です。
「苦しみ」にドカンとぶつかってみてください。目の前にあるのですから。
それはやらないでしょう。逃げるのです。そうやって私たちの心は、微細なところで「怠け」と一体になっているのです。
この心の微細な怠けは、俗世間で見られる怠けとは違います。
しかし、俗世間的な怠けも、その視点で見ることができます。
今、勉強しなくてはいけないのに、勉強と直面したくない気持ちがある。そこで、他のことに手を出してしまう。まさに怠けでしょう。
家が汚れているから、掃除しなくてはいけない。でも、「まあ、いいや。夜になったら、します」「今日は、もういいや」とサボってしまうでしょう。それも「怠け」ですね。家の掃除という苦しみに直面したくないのです。
このように「怠け」は、心の微細なレベルで働いている本能なのです。どう見ても良いものではありません。
怠けに従っていけば、苦しみから苦しみへ、さらに苦しみから苦しみへと進むことになるのです。
「勉強なんかしたくない」と苦しみを感じる。そこで怠けてサボる。さらに苦しくなります。勉強の代わりにゲームをしている間に、自動的に勉強が終わるわけではありません。1時間かかる勉強なのに、気づいたらもう20分しかなくなってしまって、余計な苦しみが増えるだけ。
ただでさえ苦しい人生なのに、怠けることで、とんでもない苦しみ、耐えられない苦しみに陥ってしまいます。怠けが苦しみを増大させてしまうのです。
ここは、仏教の精緻な心理学的観点から見なくてはいけないところです。
心は、怠けと一体になっています。心のfunction(機能)と怠けは不可分です。
「生きることが苦」ゆえに生じる怠けが本当の怠けであり、それを取り除いてしまえば、一切の問題は消えているはずなのです。
裏を返せば、「怠けがない」と言えるのは悟りに達した人だけです。世の中では、誰だって怠け者なのです。
仏道とは、「逃げなさい」ではなくて、「直面しなさい」という教えです。
encounter、向き合ってみなさい。面と向かってください、face to faceの意味です。
私たちがヴィパッサナー、気づきの冥想として教えているのは、この方法なのです。
向き合ったところで、怠けは消えてしまう。
だから、怠けと一緒にヴィパッサナーは実践できません。それは成り立たない。
encounter、直面しなくてはいけないのです。
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