仏教徒ですら、「覚れるはずがないでしょう」という気持ちでいるのです。覚れるはずがないならば、なんのために仏道を歩んでいるのでしょうか?伝統を守っているのです。一般人の日常の儀式儀礼を執りおこない、社会人の要求にできる範囲で対応したいと努力しているのです。しかし、社会人は日常の問題の解決策を探しているだけで、「解脱に達する道を教えてください」とは、決して言わないのです。
仏教を守る人々も、どんな宗派の仏教徒も、解脱・覚りは自分の能力範囲を超えている管轄外の概念として考えています。本当に人は覚れないのでしょうか?覚りに達するために必要な条件はなんなのでしょうか?それは釈尊本人に訊くべき質問です。当然、仏教が語る真理は、人間の理解能力範囲を超えているのです。解脱・涅槃について語れる単語すら、人類は持っていないのです。ブッダは、この質問にこう答えています。
「正直で素直な人が来て、私が指導したとします。午前中、指導を受ければ、午後になると解脱に達しているでしょう」と。ですから、人が素直であれば、覚れる資格を持っているのです。素直な人は、いままで悪の道を歩んでいても、感情に溺れて生活していても、仏道を歩み始めたら、人格の欠点もすべて無くなっていきます。人格が完成するのです。そういうわけで、「誰だって覚れるのだ」と論理的には言えます。
ただ、そこには引っかけがあります。誰もが素直な人間でしょうか?素直な人間は少ないのです。素直とは、微塵も誤魔化しをしないで、自分のこころの状況をありのままに認められることです。世の人々はそうではありません。自分の欠点を隠すのです。自分の長所を派手にハイライトするのです。悪いケースになると、自分が持っていない長所まで、あるかのごとく社会に言いふらすのです。この状況を「本音と建前」という二つの単語で理解できます。本音を言わないで、建前で生きることが社会の常識です。ひとは本音と建前があることが正しい生きかたであると思っているので、そう簡単に素直になれないのです。素直になるのは怖いのです。
これはそれほど大きい問題ではありません。思ったことをなんでも言ってはならないのです。TPOを考えなくてはいけません。他人に迷惑にならないように気をつければ、充分です。要するに、本音と建前という二つの立場を取っているのが、他の生命に対する慈しみのためであるならば、問題はないのです。しかし、自分のこころをありのままに直視して状況を認める素直さこそが、仏道を歩む人に究極の安穏を与えるのです。
この資格に、もう一つ加えなくてはいけないのです。なにかをやろうとするならば、それをやり遂げる性格も必要です。なにをやろうとしても、完成させる性格が必要です。言葉を変えると、簡単に諦めて腰を下ろす性格はだめです。そのポイントをやる気、意欲、精進などの単語でも表現しています。その性格がない人であるとわかっても、ヴィパッサナー実践を通して、行為を完成する充実感を体験させることは簡単にできるのです。ただし、お釈迦さまにさえできないのは、人を素直にさせることです。素直な人間になることは、各個人の宿題なのです。
スマナサーラ長老 施本
釈尊祝祭日〈ウェーサーカ祭〉祝福法話集 より
7 | ブッダの権威 確信を持つべき理由があります Wisdom is the authority of the Buddha p.87~90
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