そこをヴィパッサナー瞑想で見てください。主観で勝手に現れる感覚ではなくて、共通的な感覚データを確認するのです。食べる瞑想の場合は、「美味しい」ではなく、「味わう」と確認する。それは共通データなのです。ですから、瞑想というのは精密な科学プログラムなのです。感覚(受)に主観を入れてしまうと瞑想にならないのです。
好き勝手で主観的な妄想から惹き起こされる感覚変化は措いて、客観的になりなさい、と指導するのです。とにかく食べられるものを口に入れただけ。それで噛むと味を感じる。そこで繰り返し繰り返しやると、よく順番でプログラムが見えてくるのです。前は味わいを感じると「やっぱり美味しいね」という気持ちがあった。でもそれは主観の感覚だから、共通的な感覚データとして「味わう、味わう」と実況中継する。そうやって頑張ったら「味を感じて、それに美味しいという主観的判断をしているのだ」と気づけるようになるのです。実際には、舌に対象が触れて「味を感じた」だけなのです。そうすると、面白いプログラムが見つかります。瞑想の世界こそが事実の世界だとわかると、俗世間の妄想世界、幻覚世界が、なんだか嫌になってしまうのです。
スマナサーラ長老 施本
ブッダが解き明かす十二因縁のメカニズム パーリ教典解説「分別経」講義
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