- 仏教の教えに触れて、人間社会というものが、貪瞋痴の糞袋同士が甘くコーティングした毒をぶつけ合っているように見えて、とても気持ち悪く感じるようになりました。それでも「あの女性は美しい」などの見解に執着する自我から離れられません。このような執着から離れて修行に励むことができるようになるきっかけとなる方法は、何かあるでしょうか?
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貪瞋痴の何袋ですか? 糞袋同士が?
現実的にはそうですが、ちょっとこの言葉に感情を入れると、怒りの感情になっちゃうんですね。世界に対して、怒り的な嫌悪を持っている。だから反対に「あの女性は美しい」というふうに思って、執着が生まれる。
「美しいもの」は、あるんですかね? この世の中で。
私のアドバイスは、「物事を離れて見る」ということをやった方がいい。
離れて見る。
「批判的に見る」のではなくてね。
人間ならみんな、貪瞋痴でぶつかっているんだよと。
離れてみようと思ったら、「あれ? 自分も貪瞋痴の糞のような心」なんですね。「あー、これでは良くない」と分かるでしょう。
離れる。「detachment」
観察するんだけど、中に割り込んでしまうと観察できないから、「外から見る」という見方を作ると、解決できると思います。
外から観察する。
人類は外から観察する。外から観察すると、男も女も存在しないんです。「美しい」という概念すら成り立たないんです。差は分かるんだけどね。
美しいと思って、自分がその中に飛び込んで、自分の価値観、価値・ラベルを貼っている。物事に。
私が勝手にラベルに書いて、色んなものにベタベタベタと貼ったからといって、その貼られる品物には関係ない、 えらい迷惑です。それをやってますよ、みんな。「あの人は美しい、この人は美しくない」と。
自分で主観的にラベルを作って作って、全ての眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法に、全部勝手にラベルを貼って貼って、自分だけの世界を作るんですね。
それは正しい観察ではないんです。
美しいと見ることは正しくないし、 醜いと見ることも正しくない。どちらでも、ラベルを貼ってますからね。 ステッカーを貼ってますね。
だから、外から見る。すると、すべて全体的に見えてきて、 そのやり取り、カラクリが全て見えるんですね。まあ、外から見ると面白いと思いますよ。
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