憂い悲しみで、悶々と思い、考えが堂々巡りして、最悪の気分。
誰か大切な人が亡くなると、そうした状態に陥って精神状態がおかしくなるのです。訳の分からない言葉を繰り返したりして、ひどい状態になります。
しかし、死んだ人はもう死んでいないのだから、生きている人々が自分の苦しい人生を何とかすることが問題です。自らの幸福を考えて、自分に刺さった矢を抜いてくださいと、ここで「矢(箭)」という言葉が出てきます。
悲しみとは「矢(箭)」です。心に刺さって、自分を破壊してしまうのです。死別の悲しみは、どんな人間でも経験するもの。誰もが親しい人との死に別れに直面します。親が死んだ、おじいさんが死んだ、子供が死んだ、親友が死んだ…そうした目にまったく遭わないということはあり得ません。その時は、ひどくショックを受けて悲しくなります。それはすぐに消してしまいなさいと、この経典で説いています。
「悲しくなるな」ではなく、爆発的に悲しみが湧いてくることは避けられないけれど、悲しみが湧いてきたら、タンポポの綿毛のように、フッと流してあげなさい、と。
そうするためには理性的な見方が必要です。それは、故人を無視することではありません。死者をバカにするのでもありません。親が亡くなっても、親のことはとても大事にするのです。ただその悲しみはパッと流してしまう。子供が亡くなったら、「悲しみ」を無くしましょう、ということです。
決して、子供を愛していないということではありません。子供はすごく可愛かったし、長生きしてほしかった。けれど、自分の期待通りに世の中は行かないのだから、思う通りに人生は運ばないのだから、嘆いても意味がないのです。だからこそ、悲しみをなくすのです。それは、忘れることではありません。子供が死んでしまったら、忘れようにも忘れられない。そこを誤解してはいけません。
子供が死んだ事実は忘れられません。その「悲しみ」を無くしましょう。子供を忘れるのではなく、悲しみを忘れる。悲しみを捨てるのです。だたそれだけです。悲しんでも、何の得にもならないのですから。
仏教では、「死んだ人を忘れろ」などとは言いません。教えているのは、そんな単純でちっぽけなことではないのです。仏教で教えているのは、「忘れよう」ではなく、非常に知的で精神的レベルの高いことです。ただ「泣くなよ。悲しむなよ。誰でも死ぬことが人生だ」と、刺さった矢を引き抜くのです。
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コメント一覧 (2件)
こんにちは。
アップをありがとうございます。
satiの大切さを再認識。
やる気を新たにできました。
ありがとうございました。
コメントどうもありがとうございます。しじみさんのコメントで、私もやる気を新たにできました(笑)