先ほど、仏教用語の「疑」は「うたがう」という意味ではない、ということをお話いたしました。疑の定義は、端的に言いますと「因果法則に納得していないこと」です。そこで「なぜだろうか?理由は何か?証拠があるのか?」などのように調べる気持ちを大事にするなら、疑に邪魔されることはありません。
ただ、いつでも証拠が揃うというわけではありません。そこで、判断に足る充分な証拠がない場合は、結論に走るのではなくペンディングするのです。証拠が不十分な場合は、結論を急がずにペンディングでよいのです。
因果法則というのは、明確な事実です。世の中を見てみますと、「いかなる現象も因縁によって生まれるものである」ということが発見できます。したがって、自分が苦しむことにも輪廻転生することにも、当然、因縁があると推測できます。そこで、修行に励む人々は「気づきの実践によって真理を発見して煩悩をなくしたら解脱に達するだろう」と、ある程度、確信しておく必要があります。頭ごなしに「あり得ない」と思うと、疑になるのです。
「いかなる現象にも原因がある。何一つも偶然に起こり得ない」と客観的に理解するなら、疑はありません。これは、すべて分かったという意味ではなく、証拠が揃うまで結論をペンディングにする、という意味です。ですから、解脱を経験したことがなくても、修行すれば解脱に達するのだと確信を持つことができるのです。
一般社会において「頑張れば何とかなる」と自信を持って努力する人々もいますが、そのやり方も、俗世間のレベルで疑をなくすことなのです。
スマナサーラ長老
施本
サンガーラワ経 「能力を奪う五蓋」と「智慧を完成させる七覚支」 より
コメントをどうぞ