仏陀は、最初の説法(初転法輪)において、
「両極端の道を避けて、聖なる中道を歩むことで、真理を発見して解脱に達する」と説かれた。
中道とは、「ほどほどの苦と楽」を求めるのとは全然違う。
水風呂でも、熱湯風呂でもなく、ちょうど良い湯加減のお風呂に入りましょう、ということでもない。
それでは、肉体への依存から脱していない。俗世間の思考と何も変わらないことになる。
度を越さずに、ほどほどの苦楽で生きようとしても、五根の感覚は鈍くなっていく。その分、刺激を強くしなければいけなくなる。それに、楽を得ると欲が刺激される。苦を感じると怒りが刺激される。
だから「(ほどほどの)苦も楽も」の道を選ぶことは、「苦か楽か」の極端の道を選ぶことと、同じ結果になる。
中道とは、生き方を全面的に改めてみること。肉体への刺激とは関係ない話。
眼耳鼻舌身意(六根)に色声香味触法が触れると、認識が現れる。同時に、心が貪瞋痴で汚れる。
「六根に刺激が触れるとき、欲と怒りが現れないように気づきなさい」と、仏陀は説かれる。それが八正道の一つ、「正念」という修行。
中道は、快楽行と苦行のような肉体に依存する単純作業ではない。正念のほかに、
固定概念を使わずに物事を客観的に見られる能力(正見)
心が貪瞋痴で汚れない思考(正思惟)、言葉(正語)、行為(正業)、仕事(正命)
心を清らかにする努力(正精進)
心がさまざまな対象によって乱れるのを止めること(正定)が必要だ。
これらの八項目を実行すると、智慧が現れて、心が安穏に達する。
この道は、俗世間の人間にも、修行者たちにも発見できなかった。
中道とは、優れた仏道であり、安楽の道だ。
パティパダー巻頭法話No.248(2015.10)
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