Na ve kadariyā devalokaṃ vajanti,
bālā have nappasasanti dānam;
Dhīro ca dānaṃ amodamāno,
tene’va so hoti sukhi parattha.
ケチな人は天界に赴かない。
愚か者は与えることを賞賛しない。
智恵ある人は与えることを喜ぶ。
それによって、来世も幸福になる。
(Dhammapada 177)
Na ve kadariyā devalokaṃ vajanti,
bālā have nappasasanti dānam;
Dhīro ca dānaṃ amodamāno,
tene’va so hoti sukhi parattha.
ケチな人は天界に赴かない。
愚か者は与えることを賞賛しない。
智恵ある人は与えることを喜ぶ。
それによって、来世も幸福になる。
(Dhammapada 177)
生命は、布施なしに成り立たない
布施(dāna)とは「与える」ことです。布施なしに生命は成り立ちません。とても重大です。布施と言われると、人は、宗教団体に払うお金のことをイメージするかもしれません。布施という名目で、人々から金銭を搾取する組織があるからです。布施という行為を悪用しているのです。お釈迦さまが説く布施は、単にお金をあげるだけの単純な行為ではありません。存在論です。真理であり、事実です。
母体に貢献する行為
誰かに何かを与えることは、すべて布施になります。私たちが与えられるものは、財産(物)・知識・能力の3種類に分けられます。たとえば、歌手は美しい歌を歌うという能力を与え、作詞者は自分が持っている知識を与えています。人は、他者に何かを与えることによって社会の中で役立つ存在となり、その生き方が意味あるものとなります。「しっかりしないといけない」と自分の行動も守られます。
個人の自由・独立は、その個人が与える貢献の度合いに応じて成り立ちます。「私は自由でしょうか?」と問うなら、「あなたは、何を、どれくらい与えていますか?」と問い返します。あなたが与えている程度に応じて、あなたは自由なのです。何も貢献しない人には、何の自由も権利も成り立ちません。ウイルスのような、母体に一方的に寄生するパラサイトです。
生きるとは依存することです。しかし、依存するだけでは自由はありません。そこで、布施(dāna)は、依存する生命に自由を与えます。これを覚えてください。「布施は生命に幸福を招きます」とお釈迦さまは仰います。ここでいう布施とは「母体に対しての貢献」という意味なのです。
揺らがない自信の源
個人の幸福を決定する基準は、「私は、何を、どれくらい与えているか」。この「与える」という行為が、幸福に生きるうえで最も重要です。
世の中を見渡してみると、攻撃を受けたり、差別されたり、無視されたりする場面が多々見られます。生きるのは楽ではありません。激しい攻撃を受ける原因はいろいろありますが、中には自分が何も悪いことをしていないのに、社会から攻撃されるケースもあります。
そんなときでも、「私はどんな角度から見ても、しっかり生きている」と言える自信があれば大丈夫です。揺らぐことのない自信があれば、攻撃にもきちんと対応できます。しかし、多くの人には、自信がありません。だからイジメられると、落ち込むことになるのです。イジメられても言い返せない、何も対応できない理由は、「私はしっかり生きている」という自信がないからです。
周りから、社会から、恩恵を受けているにもかかわらず、それに値するお返しをしていないと、自信がなくなります。たとえ自分の家であっても、ただ親にお世話されているだけだと立場がなくなります。親ですから追い出しはしませんが、たまにでも掃除機をかけるとか、皿を洗うぐらいはしないと、立場がありません。自分なりに協力したり、手伝ったりすると、親は喜びます。そうすると自分の立場が出てきます。文句を言う権利が生まれるのです。
「私はこのことをしているのに、なぜ、あのことをしてくれないのか」と言えます。これが自信です。自信があれば、たとえイジメられても、堂々と反撃できます。
攻撃を受けた時に、負けて逃げるのは正しい対応ではない。攻撃を受けた時に、いかに正しい対応、正しい対立ができるかは、自分の生き方によって決まります。
ほとんどの人々は、ただ何となく生きているだけなので、あまり明るくないし、活気もありません。そのことが、周りからよそ者扱い、お荷物扱い、邪魔者扱いといった攻撃を受ける原因ともなります。攻撃を受けても、引き下がるしか道がありません。それは自分自身が、最初から相互依存型の生き方をしていないからです。
人から好かれる生き方
人から好かれる生き方をしてくださいと、仏教では教えています。いろいろなものに依存しながらも、愛される生き方です。私たち人間は、社会に依存・寄生しているのですから、嫌がられたら潰されます。社会に依存ばかりしていたら、社会がうまく成り立ちません。
社会に依存ばかりしている人は確実に負けるという法則を覚えておきましょう。人間は社会に寄生しています。その社会はあまりにも巨大です。だから社会に貢献しないとすぐ潰されてしまうのです。
与えることこそが、自分の幸福・生存の資源になります。「私は何をしてあげるのか」が、自分の幸福を左右するのです。ワガママは、決して通用しません。
「与える」「してあげる」というと、何だか損をしているように感じて、燃え尽きてしまうかもしれないと心配する人もいます。しかし、心配は無用です。何かをしてあげた結果として、あげたぶん以上に自分も助けてもらうことになるからです。
与える人は、限りなく得をします。ものの価値は独立してあるのではなく、必要性に応じて変わります。砂漠で迷子になって死にかけている人には、水一杯は自分の命と同等の価値があります。生きていく上で、私たちに何が必要になるかをすべて想像することはできません。どんな危険に、どんな不幸な出来事に出会うかもわからない。しかし、与える性格の人は、心配する必要がありません。その人の周りには、豊かな人間関係のネットワークができているからです。自分に何か必要になった場合は、補ってくれる人がいくらでもいます。土下座して頼まなくても、借用書を書かなくても、周りの友人達は喜んで、あるいは強引にでもその人に必要なことをしてくれます。
必要になったときにのみ、ものには価値があります。したがって、与える人の立場からみると、自分が与えた分よりも何億倍も自分が貰っていることになります。ですから、与えれば与えるほど、幸福は増すのです。
与える性格の人は常に明るく、自閉的ではありません。自分のものは、いつも他人と分かち合って使いたがります。必然的に、周りに多数の人々が生活するようになります。他人と一緒に生活したがる人は、ワガママになったり、他人の気持ちを無視したり、自分の気持ちを他人に押しつけたりしません。自分の気持ちも他人の気持ちも理解して、どちらにも迷惑にならないような生き方をします。それは慈しみと智恵のもたらすところです。
他人と仲良くしていると楽しいだけではなく、慈悲と智恵も湧いてくるので、日々の生活そのものが功徳を積むプロセスになります。与える性格を育てる人は、健全な心の持ち主になるのです。
与える力は、誰にでもある
「与える」とは、あらゆる存在にとって、基本的で欠かすことのできない行為です。人間の場合、社会システムの中で生きていますので、与える対象は社会です。「近くで募金活動しているから、100円くらいあげよう」という安易な態度でなく、起きた時から寝る時まで、ずっと機能していなくてはいけない行為です。与えるとは「生きる哲学」であり、存在論なのです。
何かを与えるためには、まず先に、自分が何かを獲得していなければなりません。能力が全くない人は、誰にも能力を与えられないでしょう。何かの能力を獲得するためには、社会に依存しなくてはなりません。
生まれた子供が独立するまでは、社会が支えてくれます。独立するまでは、一方的な寄生が許されるのです。いくら社会が巨大でも、子供を見殺しにすることはできません。これが自然法則です。自然法則として見ると、生まれた子供は独立するまで成長する。そして、しっかりと相互依存ができるようになった時点で独立します。
社会から恵みを受けて成長した人には、独立した時点で、自分の存在を維持するための、社会に与える何かが備わっています。ですから「与えるものがないから与えられない」という状況は起こりえないのです。
生まれてきた人間には、社会が先に恵みを与えてくれました。社会のおかげで成長し、独立した個人は、今度は自分の努力で、社会に貢献しなければなりません。
また、すべての生命は、「業」という巨大なエネルギーを持って生まれます。実際に機能するのは一部ですが、業自体は巨大です。生まれた以上は、それなりに社会で生き続けるエネルギーを持っているはずなのです。
子供・若者に教えるべき貢献の価値
私たちの命は、家族に、社会に、会社に、その他多くの存在に寄生していて、依存している。幸福とは、私たちが寄生している母体に返す栄養で成り立っている。ですから、私たち大人が子供たちに教えてあげるべきは、「あなたは、自分の幸福のために、何を他者に与えるのか」ということです。「自分の幸福ために」という言い方が大切なポイントです。これが、相互依存ということです。
単に「あなたは人さまのために、何をしてあげますか?」と言っても、言葉にインパクトがありません。「なぜ、何かをしてあげなくてはいけないの?」となるからです。仏教を学んでいないので、みんな論理が成り立っていません。
私たちは、子供や若者に対して、社会に貢献する色々な方法、貢献する様々な技術を教えるべきです。子供が幼い時から、自分自身の幸福のためにも社会の役に立つ人間になるようにと、そればかりを呪文のごとく唱えながら、躾をしなくてはなりません。
たとえば「君が勉強するのは、いい仕事を見つけて金儲けをするためだけではない。勉強すれば、いい仕事に就き、お金を儲けて、君が幸せになる。そして同時に、社会にも貢献していることになる」と言えば、子供は「勉強は嫌だ」と反対できなくなります。勉強をサボることは罪だからです。この事実を理解した子供は、一方的に母体に寄生することはできなくなります。
見返りを求めない
すべての生命がgive and takeで生きているという法則に基づいて、生命にとって自然的に発生しにくい布施の概念が説かれました。布施は「見返りを求めずに与える」というプラスαの行為です。
心には「与える」というプログラムは存在しない
どんな生命にも自我の錯覚があります。生命は「自分のために他のものを取りたい」という根本的な欲求で生きているのです。「これが必要」と判断したら、何としてでも取りまくる。それが心の基本プログラムです。ですから、そもそも私たちの心には「与える」というプログラムなど存在しません。
そう言われると、「人は与えることもしているのでは?」と疑問が起こるでしょう。しかし、よくよく観察してみれば、人々は一方的に与えているのではなく、何か大きな見返りを期待してやっているのだとわかります。
母親が我が子にお乳を与えているのは無償の愛のように見えますが、実際には、我が子から受ける喜び・楽しみを期待しているのです。
私たちの自然な生き方とは、取ること、奪うことです。同じように他人も、私から奪おうとしています。奪われないためには、自分を頑なに守らなくてはいけません。だから人付き合いにも、どこかでストレスを感じる。心を許せる友達も、なかなかできない。いつでも「取る・奪う」生き方でいるからこそ、世界には苦しみが絶えないのです。
私は自分の借りを返します
これに対して、お釈迦さまが推奨する布施は、「見返りを期待せず、ただ与えること」です。ただ与えるという布施の実践によって、心のアルゴリズム(流れ方)が転換するのです。苦悩に満ちた私たちの生き方が、大胆に変化します。
たとえば、猫に餌をあげるとします。その猫が自分の飼っている猫であれば、布施とは言えません。自分の猫が可愛いから餌をあげただけでしょう。しかし、近所でウロウロしている野良猫にも「どうぞ食べてください」とご飯をあげた場合はどうでしょう。野良猫がお礼を言うわけでもない。遊んでくれるわけでもない。食べて逃げるだけです。その、野良猫に餌をあげる行為がプラスαの行為であり、布施です。
うちの猫に餌をあげる行為は、単なるgive and take。何の見返りも求めずに「野良猫であろうと元気でいて欲しい」という気持ちで餌をあげると、「宇宙的な生命法則から見ると、プラスαの行為で貯金をした。借金だけの人生でなく、貯金をした」ことになります。「動物一匹に、その動物が満足する餌を一度でもあげれば、百回幸福に生まれ変われます」というお釈迦さまの言葉があります。
一匹の動物に布施をするところから始まって、どんどん布施のランクは上がっていきます。人間に何かをしてあげるのは、猫に餌をあげるよりもランクが上です。たとえば、災難に遭っている人々を助ける行為は、想像以上にランクが高いのです。教育を受けられない人々を援助することは、相手にとって一生役に立つ布施なので、さらにランクが高くなります。諸外国には、経済的に恵まれために教育を受けたくても受けられない子供たちが大勢います。一人でも二人でも子供たちが教育を受けられるように援助すると、その人に一生の幸せをあげたことになります。それは、他人にプラスαの何かをしてあげた行為です。
肝心なのは、見返りを求めないこと。「あなたに教育を受けさせてあげたから、バンバン仕事をして、返してちょうだい」と言うなら、日本政府が奨学金を支給したのと同じです。御利益を期待して何かを与える場合も、与えることには変わりはありませんが、「ケチ」という暗い不幸の種に水を蒔いているので、期待するほどの幸福にはならないかもしれません。
布施とは、相手からお返しをもらうのではなく、「私は自分の借りを返しますよ」という行為なのです。明るい心で与えることは、幸福への第一歩です。「布施」というお釈迦さまのレッスンには、自我の錯覚にひびを入れて、心の基本プログラムを書き換える偉大な働きがあると理解してください。
心が智慧の方へ進んでいるか
布施は、感情的な同情心や「褒めてもらおう」という見栄からではなく、「ない人にはあげる」というだけのシンプルな気持ちで行うのが最も徳が高いのです。そこには何も判断や選別はありません。
いくらたくさんお布施をしても、自我が膨らんで「私はこういうこともした、ああいうこともした」と考えてばかりいるなら、善行為にはならない。貧しい人を助けてあげて、「やっぱり皆同じ人間だから助けないといけないし、たまたま私にできるからしているだけだ」と自我がどんどん消えていって、「良いことができてよかった」という感じで終わるなら、素晴らしい善行為になります。
仏教は、そのポイントを最も大切に考えます。なぜなら、汚れた思考を育てると悟りの道とは何の縁もなくなってしまうからです。いくらたくさんお布施をしても、心が清らかな方向へ、智慧の方向へ進まないなら、その行為には何の意味もありません。
仏教は、いつでも智慧の方向へ、自我をなくす方向へ進んでいるかどうかを一番大切にするのです。