生きとし生けるものが幸せでありますように

心の中にある絶え間ない葛藤は、精神病です

私たちは、生きるために大変な戦いをしています。誰1人として楽々に生きていません。
行きたくないのに学校に通ったり、勉強したくないのに机に向かったり、会社に通って惨めな気持ちで仕事をしたり。結婚しても、ちょっと間違えば相手を敵に回す羽目になります。家庭円満のためにも、我慢しなくてはいけなくなるのです。

どこまで頑張っても、どこまで苦労しても、結局、命あるものは死にます。その気持ちが大脳に割り込むたびに、ショックを受けるのです。必ず負けるに決まっている試合に出ているようなものです。

世界は敵と悪条件で構成されています。その環境で生き続けなくてはいけない。原始脳は「悪条件をすべて潰せ」という指令を出しますが、とても実行できないので、何とか誤魔化さなくてはならない。また、存在欲と恐怖感の間にも対立があります。「落ち着く」なんてことは、あり得ない状況です。仏教は、「こころの中にある、この絶え間ない葛藤は精神的な病気である」と定義します。つまり、誰だって精神的な病気なのです。現代人の定義する精神病とはレベルが違うことを理解しましょう。

世界が「精神的に異常」と言うのは、大脳の管理システムが故障して、原始脳に言われるがままに行動する時です。

時々、大脳が負けて原始脳の意のままになってしまうことがあります。葛藤に耐えられなくて、システムが一時的に壊れてしまうのです。その瞬間、何の躊躇もなく原始脳の指令に従ってしまいます。

たとえば、痴漢という犯罪。誰だって可愛いと思われるものを触ってみたくなるものです。しかし、触りません。「欲しいものなら手に入れなさい」という原子脳の指令を何とか誤魔化しているのです。この葛藤に負けた瞬間、その人は相手に触れて、痴漢行為を犯してしまう。私たちは罪を犯すたび、それは大脳の管理システムが故障した瞬間であると理解しなくてはいけません。罪を犯す人々は、後で後悔します。それはシステムが元通りに戻ったときです。しかし、もう遅い。罪を犯した結果は、本人が受けなくてはなりません。

精神病について、現代の知識で言われている定義を忘れて、仏教の定義を理解した方が、より安全に生きられます。こころに常にある葛藤に気づいて、それが精神病であると理解するなら、大脳の管理システムが故障しないように気をつけることができるのです。

仏陀と脳pp71-74

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