生きとし生けるものが幸せでありますように

熱海8月瞑想合宿 最終日のスマナサーラ長老ご法話


 はい、よろしくお願いします。
 これで瞑想実践会が終了になります。これからも毎日、瞑想実践してみてください。妄想の世界に入ると、心の強さがなくなって弱くなるのですね。妄想する心っていうのは、すっごく弱いんです。だから弱い心で体を管理するのだから、体にもあまりいいことではないのですね。

 お釈迦さまに質問されたことがあって、まぁいろんな質問されたのだけれど、おそらく宗教的な質問だと思いますが「この世を創造して管理して、支配しているのは誰ですか」と。それが普通の人に訊けば「この世は作ったのは誰ですか。この世を支配しているのは誰ですか。この世を管理しているのは誰ですか。誰の希望通りに、世が動いているのか」というと、ほとんど出てくる答えは神様でしょう。それは科学的な答えではないし、証明すること、立証することもできません。

 同じ質問に、お釈迦さまがそれに答えるのが「心が、世を管理しているんだよ。リードして導いているのだ。” Cittena nīyati loko,」と。「Cittassa ekadhammassa, sabbeva vasamanvagū ” 心という、たったワンファクター、一つのことにみんなもう従っているんだよ。乗り超えられません」と。だからその場合にはお釈迦さまは科学的に答えるのですね。神様に支配されているんだよ、神様を乗り超えることはでいませんよ、とかではなくて心だよ、と。心といったら我々にも心がありますからね。一人一人に心があるのです。すべての生命に心があるのです。心がすべて管理しているのです。心の希望次第で世は成り立っている。なにか心が嫌だなぁ、良くないんだなぁとわかったらそれを変えてしまう。これならすごくいいんだなぁと思ったら、そういうのは守るのです。だから創造者、支配者、管理者は心です。
 それで、心っていうのは大体合わせて、他の人の心とも合わせて活動する場合もあるし、単独で活動する場合もあるし、この心っていうものは、正しく真理知っているならば管理できるのです。心を成長させることもできます。ですから、お釈迦さまは他宗教に対立して言っていることですが、神様という妄想概念を使っちゃうと神様のことを管理できません。神様に文句言うこともできません。もっとしっかりしなさい、ともできません。しかし、「心が支配者で心が創造者でクリエーターで、心が manipulate 管理するんだよ。すべての存在のマネージメント(管理)は、心がやっているんだ」と言ったら、我々には心を管理できるのです。世に、清らかな心をつくることもできる。だから状況が悪ければ、清らかな心をつくるだけです。

 それで仏道というのは、いかにして心清らかにするのかということは、徹底的に語ってあって、ちょこちょこっと心清らかにすることではないのです。テッテイ的に心清らかにすること、二度と汚れないように、心を清らかにすることを教えてはいるのですね。だから心が汚れる理由は、無明というのです。無明と渇愛。

 無明というのは、ただそのままあぁそうですかと、受け取ることなのです。それではなくて、なんですか?と、なぜですか?と、ちょっと調べることだったら無明ではないのですね。だから、なんですか?なぜですか?と調べると因果法則というものが出てきて、すべて因縁に依って成り立つものであると、因縁が消えてしまうとどんな現象でも消えてしまいますよ、というわけで世の中で永久不滅というものは何も存在しない、ということになりますね。
 だから、因果法則だよと知っている人は、あまり無痴がないのです。そういうことで、人はやるべきことは心を清らかにすることなのです。心を制御するためにいろんなことをやってますよ、お祭りやるわ、宗教的な儀式やるわ、毎日教会に行ってなにかお祀りやるわとか、カトリック教だったら懺悔するとか。いろんなことをやっているのだけれど、それもある程度で心清らかにして落ち着きたいのでしょうね。神父さんのところに行って懺悔する場合は、心の悩みが、私は罪を冒したという後悔する心が無くなって「あなたのことは神様は許してあげているのだ」と言って、そのごまかしで、みんな落ち着くのです。

 とにかくすべて心次第で、仏教の場合でもいかに心を成長させるのか、心の汚れをどうやって落とすのかということを教えて、解脱という目的を教えているのですね。

 解脱の反対は、dependence 束縛なのですね。心は何かに引っかかって、何かに依存して活動する。何かに依存しているということは、心が弱いということなのです。だいたい我々は肉体に依存している。肉体でなければどうにもならんのだと、えらい肉体のことに執着して肉体をなんとしてでも守らなくては、とかそればっかり。肉体に執着するのではなくて、心そのものを清らかにしなさい、とお釈迦さまは仰ってるのです。肉体は、別に汚れてもどうってことはない、心は汚れるわけじゃないのです。

 心を清らかにする。Sacitta pariyodapanaṃ 自分の心を浄化すること、清らかにすること。
-etaṃ Buddhāna sāsanaṃ. それはブッダの指導でアドバイスである、ブッダの戒め。Sacitta(サチッタ)自分の心を清らかにしなさいよ、と。

 だからすごく文化的なカッコイイ宗教ですよ。なんの色々お祭りとかやらなくても、ひとりひとり心を清らかに保つこと、考えちゃう。こんなことやったら心が汚れる、だからそんなことはやめるとかね。こういうことをやると心が汚れません、だったらそれはやりますとかね。そういうふうに自分で考えることはできます。仏典に書かれている通りにやるということでなくても、自分でも判断して「こういう生き方だったら心は汚れる、こういう生き方だったら心は汚れません」というふうに自分の判断で生きられます。

 何日間も皆さま、いかにして心を清らかにするのかという、ヴィッパサナー瞑想では心を清らかにすることよりも、心の認識機能を正すという、正しく認識しなさいよ、捏造するんじゃないよ、生命はいつだって正しくありのままに認識しない、捏造するのです。捏造というのは、自分の都合に合わせることなのです。だから事実はどうでもいいのです。自分の都合に合わせて認識するのです。世界にあるニュースと同じ。ニュースというのは、人間に事実を伝えるという嘘を言って、自分の都合に合わせてデータ捏造して発表する。だから誰のニュースもそんなに信頼できない。それぞれの会社の目的があって、色々ねらうものがあって、だから各ニュース会社がどうやって自分の都合に合わせて世界の人間だますのかということを考えているのです。口先だけで、ありのままに情報を伝えることは我々の尊い仕事であると、真っ赤な嘘。それぞれ自分たちにいろんな考えがあってカラクリがあってねらうものがあって、それがニュースとして放送して世界を騙す。昔から公共放送はできるだけ客観的にニュース報道するという信仰があったのだけれど、よくよく見ると同じことをやっている。別の会社などはまったくもういいかげんで、他にもありますね。自分たちの都合に合わせてニュース放送する。

 そういうことでとにかく世の中は心を成長することではなくて、心を汚して心を自分言う通りに物ごとをやる、なにかロボット作りたいのです。だから俗世間で生きている私たちは、そういう何人かに管理されているロボットなのです。だからどうしてもものすごく管理されているのですね。私たちの知りたいことは知り得ない、向こうが「これ知りなさい」と提供するものしか知り得ない。それはその通りかというとそうでもない。では本当のことどうかと調べると、そのチャネルぜんぶ閉ざしている。そういうことで、ずっと我々の心っていうのは誰かの、貪瞋痴の、無痴の人々に管理されていてどうしようもないのですよ。

 だから人はやるべきことは、ひとり静かに座って客観的に実況中継して、自分の心を清らかにすること。それで世の中も何があってもその人はそれで関係ない。自由になっているのです。だからヴィッパサナー瞑想こそ、人間に幸福を与えるものはないのです。人間に自由を与えるものは、ないのです。汚れている心だから、汚れをなくす時はちょっと苦しいのです。だから修行中は、けっこう大変です。でも頑張って頑張って心をどんどんどんどん清らかにして、心は清らかな状態に達したら、すべての苦しみが消えてすごい無条件の開放感、自由というものは生まれるのです。世間から我々は心を奴隷にされているだけではなくて、私たちの心そのものもすごく物質に依存して物質がなければ何もできんやという、えらい誤解なんですね。その心の持っている誤解に無明というのですね。そういうことでヴィッパサナー瞑想っていうのはありのままに事実を観察して、心の自由を目指すことですね。ヴィパッサナー瞑想する方々は、なんとなく煩悩から離れてはいきます。心は強くなります。自己管理もできるようになります。しっかりと進めば、心は完全に清らかにはなりますね。ですからこれからも頑張ってみてください。

 心は汚れている証拠というのは、妄想することですね。だからヴィッパサナー瞑想でとにかく妄想してはいけないと、断言的にいうのです。ただデータだけ受け取って、次に次に次に行ってください。何も考える必要はないし判断する必要はないし、見えたら「見える、見える」と実況する。聞こえたら「聞こえている」と実況する。それでストップするのです。何を聴こえているのかと、そこまではいかない。そこまで行っちゃうと自分の妄想が割り込んで、捏造世界になるのです。だから見た目簡単に見えるのだけれど、ヴィパッサナー瞑想というのは論理的ですごい深い論理に基づいて説かれているものです。

 はい、話は難しくなるのだから、そこらへんで終了します。これからも実況中継で生きてみてください。ひとつ、この自分が実況しているならば、その瞬間で心は清らかです。手を上げる場合は、心汚れている。なんか企みがあってねらいがあって上げているのです。手を上げる場合は「上げる、上げる」と実況するとその間、心は清らかです。すべて日常生活を実況でやってみたら、いかにすごいかとわかるのです。すっごく楽になる。だからできることなら日常でも、何やってる時でも実況でやるということをちょっと身につくようにすれば、みんな素晴らしい人格者になるのです。

 ということで、頑張ってみてください。そしてもうひとつポイントありますが、我々はほとんど「過去」に生きているのですね。過去というのは死んでいるのです。ないのです。だから生き方というのは、ものすごくトラブルでスムーズに進まない。いつでも過去のことを考えて、それで判断して生きようとするのです、いつでも。よく言うでしょう「過去の経験をいかして」とか。これは成り立たない。智慧があれば過去の経験いりません。その場で、判断できます。その場その場で判断できます。そういうこのすごい立派な人格になりますよ、ヴィッパッサナーやって、それを理解して自分の生きる哲学として、観察することは自分の生きる哲学であると知ったら、すごいいい世界が出てきます。何も失敗しない、悩まない、明るい生活が現れてきます。で、話は終了します。頑張ってください、これからも。


文字起こし協力 shiro さん

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