今日は本当に大事な法要でございまして、東京に近いところで修行できる道場が現れて出来上がって、それは四方サンガにお布施をする儀式を行いまして、仏教ではいろんな善行為・功徳行為たくさんありますけど、その中でほとんど重い価値のある善行為として、何か建物みたいなものをつくって差し上げることになるんです。なぜかというと、そういうのは修行するために用意するものだから、人が来て修行する度にお布施した方々の功徳にはなります。
で、その時なんか余計なこと考えたんだけど、この建物のお布施はできますけど、土地のお布施の儀式はないんです。それに勝手にまた考えたんだけど、土地は誰のものでもないんだからね。だからそれはあなたに差し上げますと言ったって、あなた(その人)のものでないでしょう。まぁ土地は土地で地球のものでね、我々は借りて使ってるだけで、その上にのせるハコモノは、私のもの、私がつくったものやと言えるんですね。だから面白いんですよ、いろいろ建物つくって、僧房つくったりして、四方サンガにお布施をする。土地はどうやってお布施するのかっていうことは、なかなか出てこないんですね。でまぁ、人にそれ(土地)買うことできますから、買ったもので一時的な権利ありますからね、その一時的な権利を使って、サンガに寄付しますということはできますね。しかし、土地っていうのは簡単に政府が取り上げることができますね。そういうことです。
お釈迦様が、すべての物事は心しだいである、と。心が、物事すべて現象つくっているんだと。
心が現象つくって、この現象が本物やと思ってそちらに執着して、その中で自分の檻(オリ)を作っちゃって、回転するんですね。私は最近クォンタム世界と言ってますけど、仏教ではそんなクォンタムという単語はないんですけど、仏教は物が有るという立場は全くとっていないんですね。物が有る、存在するというね。「有と無」を両方捨ててるんですね。有るのよう、有るようで無いようで、自分がどんな立場とるのかと。
ですから、有ると自分が思えば自分には有るんですね。無いと自分が思えば自分にとってはそれは無い、という。だから、すべて心が管理しているんだよ、ということになるんですね。それは科学者たちが、本当に物質は有るのかというと、まぁ勝手に有ると。無いといえば無いでしょうと。物質は無いと思えば、波長になっちゃうんですね。波長だったら、過去・現在・未来関係なく存在するんです。距離も関係ないんですね。時間と距離関係ない、時空関係飛ばしちゃって、波長として存在するんだと。でもそれも心が認識するかしないか心しだいで理解するんだよ、という一応科学的にはそんなふうな話になって入るんです。
そこで私がもっと俗っぽく話しますけど、もし私の心が私の生きてる世界つくっているならば、自分にとっては最高都合のいい世界つくれるでしょうに。すべて自分がつくった、自分の心のプロジェクション(投影)であるならば、なんで気持ち悪いものを自分でつくるんでしょうかねぇ?
例えば、私に見える仏法学舎は皆様には見えませんよ。場所変えたからって、そこは違います。皆様がこちらに座ってみても、皆様には別世界なんです。私には別世界なんです。一人ひとりにこの仏法学舎は、それぞれの人に見える仏法学舎なんですね。皆に同じように見えるわけじゃないんです。眼で見ると、見える。見えるだけじゃなくって、それによって得る体験もそれぞれ違うんです。だから私が私の眼で仏法学舎を見て、私の心に何か体験・経験が現れる、それによって価値判断セットが現れてきて好き嫌いが現れてきて、心でずっとグーっと回転するし、皆様の眼の中でも見たらなにか価値観現れちゃって、それについて経験が流れていくっていうことで。だから心しだいですね。であるならば、何で私に最高抜群の豪華な仏法学舎が見えないんですかねぇ。あぁすごい腰が抜けるほどすごい仏法学舎っていう感じが生まれませんしね。そこなんですよ。
心には、どこまで自分の世界つくれるのかというエネルギーがあるんです。猫を見て、超かわいい猫やっていうふうに認識することもできるし、なんだ猫かいって認識することもできるし。超かわいい猫ちゃんですね、なんて可愛いんですか、という人にとっての心に起こる感覚・気持ち、その人の業の結果なんですね。それは業というのですね。なんだ猫ですねぇつまらないなぁと思っちゃうと、その人は何かつまらない感覚で、何か暗い感覚を感じるでしょ。それ、業というのです。
我々の業が、業っていうのは心につくられるポテンシャル、心がまぁそれぞれ一人ひとり。心が、犬猫の心もそれぞれ世界つくってますよ。例えば、こちらで飼ってるネコちゃんがどんな仏法学舎を経験してるかさっぱりわからないんです。犬を飼ってみれば、犬には別世界です。だからそれを理解しましょうかね。
道路歩いている時でも、散歩している時でも、喋ったりする時でも、もの見たり聴いたりする時、友達をつくったりする時でも、いつでも業が働いてるんです。例えば、ある人がどんな人ともすぐ仲良くする。それで私(こちら)が「え、あんたあの人と仲良くするんですか?あの人けっこうタチが悪い人間だよ」と私が思う。それ私の業なんです。私にとってタチの悪い人間がいて、自分が苦しみを経験している。隣の人は、みんなと仲良くして、まぁ友達や、という感じで気楽に生きている。その人(相手)に「あの人ちょっとタチが悪い、、、」と言っても、「よくわからんよ、いい人や」、その人にとってはいい人なんです。
そういうことで何から何まで心がつくる世界である、と。しかし心に好き勝手に物事をつくることはできません。心のポテンシャル、財布ですね。心のサイフの力によって、つくられる建物は決まるんですね。ですからこの科学者のクォンタム定理よりは、仏教では業というものも入れてあって、業の法則がありますよ。それは普通の人間には理解できませんと。本当にそうですね。最近になって人間が、このクォンタム世界のことを根掘り葉掘り勉強したり研究したりすることになったんだけど、それほど、、まぁノーベル賞取っても去年でしょうかね。今、わかるようになりまして一般人にも理解できるように説明してあって。アインシュタインさんがもうまるっきり理解しなかったんですね。「間違っているんだよ、そんなことはない、物質は存在するんだよ、時間、存在するんだよ、空間、存在するんだよ」と言って。これは何も存在しないと言っちゃうと、アホかい、とその人(アインシュタイン)思っちゃったんですね。そこまででも理解むずかしいし、だから、お釈迦様が最初からも業の法則はちょっと放っておいてください、それは理解できませんよ、と。
お釈迦様仰ったのは、科学者みたいなレベルでしっかりと理解することなんですね。で、理解できるところは、こう我々思いましょうか、と。業っていうのは我々自分の心が持っているサイフなんですね。この財布と言ったらお金入っていてポジティブ価値でしょう? 財布にこのネガティブ価値のお金も入っているんです。だからプラス・マイナス両方入ってるんです。で、プラスのエネルギー入っているならば買える、美味しい弁当買える。マイナスの数字だったら自分の持っている千円を誰かにあげなくちゃいけない。自分が弁当買えないんですね、その場合は。我々の人生の中で、自分たちが頑張って人のお世話するわ面倒みてあげるわ、するわするわキリがない。お返しはゼロ。そういう業もあるんですね。だからって、やりませんよと、これも成り立たないんです。なんで私はこの人この人の面倒ばっかりみて、私は損ばっかりしているんだようと無視できない、やらなくちゃあかんです。だから誰の人生もそういうふうにポジティブバリュー&ネガティブバリュー、価値二つでサイフができているんです。業というサイフが。それで人生が組み立てる。
この肉体もそうなんです。これ、せいぜい自分の心に(よって)つくられた肉体なんです。ギリギリ全部お金使っちゃったんです、体つくる時に。使ったら、これが死ぬまで運ばなくっちゃいけない。そこで何年もてるかということも決まってるんです。建物しだいで、やっと2年で壊れるものもあるし、100年たっても建物ありますよという建物もあるんでしょうしね。人間の体は百年はもちませんけど、だから人がいろんな年齢で体が壊れてなくなりますね。いえ違います、俺は150年まで生きられる体作るぞといっても、できない。生まれる瞬間で出来たんだからね体が、生まれる瞬間で細胞が出来ちゃたんだからね、そちらに全部設計図があるんです。何年もつのかと。心臓が何歳で壊れるのかと。何歳で細胞が癌に変化するのかと。
細胞が癌に変化するというのも、業のエネルギーが消えちゃうんです。業がずーっと全40兆の細胞の中で働いてるんです。業の力が弱くなっちゃうと放っておくんですね、家であちらこちらゴミが溜まっているような感じで。例えば大きい家で一人が住んでいる、毎日掃除できない、だから一年も開けたことのない部屋がある。そうすると、それ壊れていくんですね。自分の心が届かないんだからね。そんな感じで体の中でも全細胞の中で業が信号出してるならば普通に細胞が働くんですよ。でも業もどんどんどんどん弱くなっていくんだからね、貯金が減るんだから、ちょっと節約しなくちゃならないのです。大事な金がなくなって貯金が消えている、だったらここはやらない事にしましょう、この電気は使わないように、このクーラーを使わないようにしよう、とかね。で、カットするでしょ、そうすると我々の体の中でも同じ事、業が減っていくと同じこと起こるんですよ。そうすると細胞管理できる業が、そこまでもう管理できない、ヘトヘトやと思ったところで、管理が届かなかったところの細胞が、(業の)管理なく成長するんです。これ困りますよね。細胞には勝手に成長できませんよ、業が働いている場合には。その場合には癌にはならないね。
そういうことで、世に起こるすべての物ごとは業によって起こるんですよ。業っていうのは、結局はクォンタム世界で、心に入っているポテンシャルのエネルギーなんですね。だからこんな話言ったのは、なんでお釈迦様は善行為しなさい、善行為しなさい、功徳を積みなさいと、まぁそれしかないんですね。幸せになりたければ、長生きしたければ、健康でいたければ、、、功徳を積むことなんですね。
日本語で言えば「徳の高い人」は藪に入ったっても楽しく生活する。「徳がない人」は、藪だ、気持ち悪いんだ、蚊もいるんだ、とか文句ばっかり言っちゃって、地獄をつくる。徳が高い人は、アリがずーっとパレードつくってたら「なぁんてかわいい、頑張ってるんだなぁ、アリさんたちは何考えてるんですかねぇ」とか、そこから面白さを発見する。すごく何か刺激があってすごい世界だ、とか。ですからこの徳を積んで積んでおいちゃうと、かなり幸福な環境で生きられることになるんですね。
昔の人々にはこういう法則がわからなかったんだから、善行為すれば幸福になるんだとかね、死後天国に生まれ変わるんだとかね、大したこと、不思議なことじゃないんですよ。死後はすごい徳を積んだ心がカッコいい好みの世界つくるんです。それが天国なんです。天国というのは自分にとっては天国でしょう。思っただけではつくれないんです。「サイフ」が必要です、ちょっと厚い財布が。ネガティブお金ではなくポジティブお金がある財布が必要です。例えば悪行為するとお金貯まりますよ、でも全部借金、払わなくちゃいけなくなっちゃうんです。
悪行為してもポテンシャルが溜まる、善行為してもポテンシャルが溜まる。溜まるポテンシャルによって自分がいろんな事やらなくちゃいけないエネルギーか、幸せ入ってくるエネルギーか、という二つの働きになるんですね。
そういうことで、普通は、理性ある人は朝晩、善行為をする。善行為の中でも一番、この慈悲の気持ちはすっごい力がある善行為なんですよ。
特に、年取って体がいうこと聞かないで、細胞たちがずいぶん勝手で働く場合は、癌が出てきて勝手わがままで。その時は心の中で慈悲の気持ちを育てて育てて、慈悲のポテンシャルつくるんです。そうすると、ものすごく速く充電します。充電したらそれなりに体の維持管理ができますね。慈悲の瞑想はすごい善行為であるし、今日もそういうふうな善行為でしょうしね、慈悲が入ってますよ。誰だって来て冥想して、誰だって自分の心を清らかにして。
煩悩っていうのは、極限なネガティブエネルギーなんですね。酷い目にあうエネルギーなんですよ。どこ行っても酷い目にあうと。飛行機に乗ったら墜落すると。同じ業のグループが集まったら墜落しますよ。仏典でいろいろ物語あるでしょうに。昔の仏教の物語は、科学知らない人々に、法則わかるために、物語に仕立てて教えているんです。だから、仏教物語は捨てたものじゃないんです。いつでも、なにか真理を教えているんですよ。
思い出した物語なんですけど、誰か何人かが山でいろいろ仕事して、洞窟があって、洞窟に入って、じゃあご飯でもといろいろ獲物獲って、果物とかね、ひと休みもして村に戻ろうと言って、取ってきた食べ物食べて横になって寝ていて、じゃあ出かけようと思っちゃうと地滑りで石が来て洞窟にフタをして、もう何のことなく動かせません中からは。
村人は、あいつら山に入ったんだけど一日二日たっても戻ってこない、山をあちらこちら調べても、いないねぇ、とか。熊にやられたかもしれません、と諦めちゃう。それで一週間も居たんだそうです。飲まず食わず、何もないんだから。地滑りででっかい石が来て、村人来ても、男グループが洞窟あるから中に入ろう!と楽しみに探検。そこで石があって、ここら人いないでしょうと帰っちゃったんです。でも一週間たったところで、またあの石が落ちちゃったんです。どうせ落ちてきた石だからさらに滑って、それでやっと外へ出たんだと。
それでなぜかというと、このグループが、ふざけて食用のトカゲがいるんですね。トカゲはいろんな種類ありますよ。これ、過去生で追っかけたんだけどトカゲが穴に入って隠れちゃったんです。そこでこいつを後で出てきたら捕まえようと、穴を閉めて帰ったんです。帰ったら一週間もたってから、どうなってるんでしょうかと行って穴開けたんです。トカゲは一週間も、苦労したんですねぇ食べるものもなくて。あの業が働いたんだと、グループが同じ悪行為するために、そんなのはふざけて誰だってやる遊びですけど、そのグループが一ヶ所で、また業が今チャンスだ、とあのツケが返ってくるんです。だから、ああいうストーリーがわかりやすいね。あんなただのストーリーですよ、と否定もしやすいしね、ウソでしょう、とかね。でも裏にある法則がね。
善行為するときも悪行為するときも、我々は仲間と一緒にやるんです。仲間と一緒に悪いことしたら、必ずその仲間が繋がるんですよ。繋がったとたん、悪行為の結果が今がチャンスやと出てくる。善行為するときも、皆、仲間でやるんですね。仲間でやると善行為のパワーもすごいんです。だから善行為はたくさんの人々、仲間でやってください、ということでね。たくさんの人々参加してくださいと。例えば国民みんなまとめて善行為すると、一人ひとりがほんのわずかな善行為ですよ、でも集まったら膨大な善行為です。
昨日読んだ本にあったのは、人間のできてる(構成する)物質を、これふざけて科学的に書いてるんですよ。人間のものが大さじ1杯だったらこれくらい熱があるんだと。それで人間という物質が、たくさん集めると太陽よりも物凄い熱量出すんだよと。1グラムが、あれ我々はその熱感じないのは、少ないんだからグラム数が。例えばもし私の体が10トン、20トン位大きくなっちゃうと、かなり熱くなります、ここら辺は、もう。
という感じで、業の場合でも一人ひとりの心が繋げれば繋げるほど、業の力が強くなるんですね。そういうことで、心の中でたくさんポジティブエネルギーを、つくってつくってつくっておかなくちゃいけない。そうすると生活は楽になるし、生活に困らない場合は心が落ち着くんです。食べる物も手に入らない場合は落ち着かないでしょ。冥想できる場合じゃないんです。体でいろんなところが不自由できいてくれないんだったらね何も。心は落ち着かないんですね。だから善行為して体の調子が良くなってくると、困ることは減るんです。それでやっと理性を育てるチャンスが出てくる。生きるってどういうことかと。
この心の法則は理解することはちょっとむずかしいことで、だからこそヴィパッサナー冥想を教えたりしていて。ヴィパッサナー冥想で、すぐ一日二日で、皆様、クォンタム的な法則で働いてますよ全部、とすぐ発見します。すべて心しだいやと。心に怠けが入ると、体がかなりキツくなってくる。やる気が出ると、体が軽くなる。心しだいで体が反応するってことは、至って簡単に理解できます。話はその程度にいたします。
皆様方は、大変な、無量の無制限の功徳を積むことになりました。皆様に、幸福でありますように、心が清らかになりますように、煩悩がなくなりますように、涅槃に解脱に達することができますようにと誓願いたします。
サードゥ、サードゥ、サードゥ!
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